胚の「自立の瞬間」にはウイルス由来RNAが必要だった

体外受精を行う臨床の現場では、受精後まもなく胚の発生が止まってしまうケースが少なくありません。
その背景には、生命の始まりにおける劇的な自活の瞬間が潜んでいます。
受精直後の胚は、いわば「お母さんが詰めてくれた弁当」で動いています。
卵子の中にあらかじめ蓄えられたRNAやタンパク質を使って、最初の数回の細胞分裂を乗り切るのです。
しかし、いつまでもこの備蓄には頼れません。
ヒトの場合、4個から8個の細胞になるころ、胚は弁当を食べ終え、自分のゲノムを読み始めて”自炊”を開始しなければなりません。
この決定的な切り替わりを、専門的には「接合子ゲノム活性化」(ZGA)と呼びます。
いわば、これまで母親から受け継いだ蓄えだけで生きてきた存在が、初めて自分の力で生きはじめる瞬間です。
赤ちゃんがへその緒から切り離されて、初めて自分で生きていくような瞬間が、受精卵にも存在するわけです。
ここで自分のゲノムをうまく起動できなければ、胚はそれ以上発生を進められず、停止してしまいます。
実際これが、体外受精における初期の発生停止の主な原因の一つと考えられています。
マウスなどのモデル動物では、この自立起動を制御する重要なタンパク質がいくつも見つかってきました。
しかし厄介なことに、ヒトの自立起動にはヒト特有の仕組みがあるとみられています。
マウスの知見をそのまま当てはめることはできず、ヒトの胚でなぜ自立起動が失敗するのかは、ほとんど解明されていませんでした。
論文著者の張丹氏も「臨床の現場では、多くの体外受精の失敗を目にします。患者の染色体や遺伝子を網羅的に調べても、それでも原因が見つからないのです」と述べています。
医師にとっても患者にとっても、こうした症例はまさに”生物学的な袋小路”のように感じられることがあるといいます。
そこで今回研究者たちが目を向けたのは、ゲノムの中でも特に”ガラクタ”扱いされてきた領域でした。
ヒトゲノムのかなりの部分は、進化の過程でウイルスが感染した名残の配列で占められています。
こうした配列は「内在性レトロウイルス」(ERV)と呼ばれ、もはやウイルスとしての活動能力は失っていますが、宿主のゲノムの中に”居候”のように残り続けています。
まさに古代ウイルスの残骸と言える存在です。
チームは体外受精後に8細胞期で発生が止まった胚を集め、どの遺伝子やどの反復配列の発現が変化しているかを網羅的に調べました。
うまく育った胚と止まった胚で、何がどう違うのかを比較したわけです。
すると、止まった胚では反復配列の中でもとりわけ「内在性レトロウイルス」の一種(MLT2A1)の発現が、うまく育った胚に比べて大きく低下していることがわかりました。
さらに内在性レトロウイルス(MLT2A1)の発現レベルと自立起動(ZGA)に関わる遺伝子の発現レベルのあいだに、強い連動関係が見られることもわかりました。
ただし、この時点で言えるのは「古代のウイルスの残骸(MLT2A1)が低い胚は自立起動がうまくいかない傾向がある」という相関にとどまります。
そこで研究者たちは、本当に古代のウイルスの残骸が、ヒト受精卵の活動開始に関わっているかを、因果のレベルで調べることにしました。



























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