ヒツジを珍獣として扱っていた平安京の人々

むかしむかし、雅やかな平安京において、風変わりな外来動物としてひときわ異彩を放つ存在がありました。
それは「羊」と呼ばれる生き物です。しかし、この羊なるもの、一筋縄ではいきません。
いにしえの人々の記録をひもとくと、羊は一方では「霊獣」として仰がれながらも、他方では日常の中に定着することなく、幻のように姿を消していったのです。
まずは平安時代の記録、『延喜式』に注目してみましょう。
この巻物には、当時の国家の制度や貢納品に関する規定がまとめられており、諸国からの貢納品として「羊皮」が記されています。
しかし、よく調べてみると、その多くは「牛皮」であることが明らかになるのです。
さらに、大膳式の記述には「羊脯(干し肉)」が登場しますが、これまた「鹿脯」で代用されるという注記が付されております。
この事実から導かれるのは、当時の日本には羊を恒常的に飼育する土壌がなく、たまに海外から渡来する程度であったという現実です。
羊肉も羊革も、夢物語のごとく貴重なものだったのです。
では、平安の人々が「羊」と呼んでいたものは、本当にあのフワフワとしたヒツジであったのでしょうか。
『水左記』や『玉葉』には、顎に髯をたくわえた生き物が描写されております。
しかし、その姿はどうも私たちが思い浮かべるヒツジとは異なるようです。
むしろ、現在のヤギに近いものだったのではないか、と多くの研究者は指摘しています。

これを裏付けるように、平安の記録には「羊」が木の枝葉を好むと記されておりますが、枝葉は草食性が強いヒツジには不向きな食料です。
そのことから当時の人がヤギのことを羊と呼んでいたことが窺えます。
さらに興味深いのは、平安時代の知識層が「羊」と「山羊」を区別して記録している点です。
たとえば、『日本紀略』には「白羊」と「山羊」の併記が見られますが、ここでの「山羊」とはヤギを意味し、「白羊」は白いヒツジであった可能性があります。
とはいえ、10世紀に入るとこうした区別も次第に曖昧になり、やがて羊とヤギは一緒くたに扱われるようになりました。
では、なぜ平安時代の日本では羊が広まらなかったのでしょうか。
その背景にはいくつかの理由が考えられます。
第一に、羊は気候や食性の面で日本の環境に適応しづらかったこと。
第二に、遣唐使の廃止により、中国からの文化や技術の伝来が停滞したこと。
そして第三に、羊が病気の原因とされ、社会的に敬遠されたことです。
これらの要因が重なり、羊は平安時代の日本で根付くことなく、希少で神秘的な存在として語り継がれることになりました。
それでもなお、平安の雅びな世界において、羊は一種の憧れの対象であり続けました。
高貴な人々は、遠い異国の地から渡ってきたこの不思議な生き物に、何かしらの神秘を見出していたのでしょう。
その姿が本当にヒツジであったのか、それともヤギであったのか、あるいは彼らの想像の産物であったのか――その真相を知るすべはありません。
しかし、この曖昧さこそが、平安時代の羊という存在を一層魅力的なものにしているのかもしれません。
さて、このように記録の中を行き交う「羊」という幻影は、現代に生きる私たちに何を語りかけているのでしょうか。
平安の人々が追い求めた羊は、もしかすると、未知なるものへの憧れや好奇心の象徴だったのではないでしょうか。
その姿が曖昧であればあるほど、人々の想像力をかき立て、豊かな物語を生み出したのです。