ソ連で遺伝学を研究するのは「死」を意味した⁈
ベリャーエフは1934年に農業大学に入学し、遺伝子の研究を始めます。
しかし当時のソ連で遺伝学の道に進むのは実に危険なことでした。
というのも西洋社会ではその時、親の見た目や性格などは遺伝子によって子に伝わるとする「メンデルの遺伝学」が大きく支持されていました。
ただこれは見方を変えれば「人の運命は遺伝子によって決まる」とも捉えることができ、階級闘争や社会主義的な進歩を掲げるソ連の政治的イデオロギーとは相反していたのです。
そこでソ連の著名な生物学者だったトロフィム・ルイセンコ(1898〜1976)は「見た目や性格は遺伝子ではなく、育った環境でいくらでも変わる」と、メンデルの遺伝学に真っ向から反対する学説を唱えます。
そしてこれを大いに支持したのがソ連の最高指導者スターリン(1878〜1953)だったのです。
こうしてソ連では1920年代から国全体でメンデルの遺伝学を否定し、ルイセンコの理論を支持する「ルイセンコ主義」が急速に拡大します。
その中でメンデルの遺伝学を研究していた学者たちは仕事をクビにされたり、牢獄に収容されたりしたのです。
そのせいで死に至った遺伝学者も多くいました。
ベリャーエフの実の兄で遺伝学者だったニコライもこの時に命を落としています。
ベリャーエフ自身も周りにバレないようこっそりと遺伝子の研究をしていたのですが、1948年にバレて一度クビになります。
ところが1953年にスターリンが死去したことで、ソ連内での遺伝学の規制が徐々に緩和されていきました。
そしてベリャーエフは1958年、シベリアに新たな遺伝学研究所を創設し、本格的に遺伝子の研究を開始します。
そこで彼が着手したのが「家畜化実験」でした。
では、ベリャーエフが家畜化の実験台に選んだ動物は何だったのでしょうか?