江戸時代後期までヒツジとヤギを混合していた。

古の仏画や彫像をめぐる研究に没頭するならば、そこには時代を超えた動物たちの影が浮かび上がってまいります。
中でも、十二神将の未像に描かれる「羊」についての考察は、我が国の中世における動物学的知識と信仰の交錯を垣間見る格好の機会を提供してくれるのです。
さて、醍醐寺に所蔵される『薬師十二神将図』(1227年)や、高野山の曼荼羅(1310年)、東寺の『二十八部衆并十二神将図』(1359年)などに描かれる未像に注目してみましょう。
これらの図像に共通する特徴は、「後方に伸びる角」と「顎髯」を持つ動物が描かれている点です。
角が真っ直ぐ後ろに伸びる姿は、羊ではなくヤギを思わせます。
さらに、その顎髯の描写も、ヤギならではの特徴を捉えています。
では、このヤギの姿は一体どこから来たのでしょうか。
仏教経典や中世の文献を紐解くと、『大般涅槃経』や『四座講式』などに「羊」の存在は記されていても、「山羊」に関する言及は見られません。
このため、仏涅槃図や未像の彫刻においても「羊」と認識されていた動物が、実はヤギをモデルにしていた可能性が浮かび上がります。
さらに興味深いのは、こうした中世の未像彫刻に見られる意匠です。
頭部には「羊」を象徴する標識が据えられていますが、実際にはその角の形状や顎髯から、彫刻のモデルは明らかにヤギであると考えられます。
これは当時の二次元の図像が彫刻の参考資料として流布していたために、同じモチーフが再現されてしまった結果といえるでしょう。
では、文献史料の中に「羊」として記録された動物はどうでしょうか。
14世紀までの例では、比喩表現としての「羊」が見られる一方、実際に生息していた羊の記録は非常に少なく、その多くがヤギであったと推測されます。
これにより、図像や彫刻に描かれた「羊」がヤギとして造形された背景には、中世の動物学的な誤解が影響していたことがわかります。
こうした中世の誤解や混同が次第に修正されるのは近世以降のことです。
江戸後期になると、中国から輸入された博物学や本草学の影響で、ようやく「羊」と「山羊」の区別が正確になされるようになりました。
明治時代には、学校教育を通じて正しい知識が普及し、日本における動物学的な基盤が整えられていきました。
中世の未像や仏画を紐解くとき、そこには人々が見ていた世界と、信仰の中で受け入れられていた動物の姿が入り混じっています。
その曖昧さこそが、時代を超えた造形美を生む土壌となり、後世に思索の種を蒔いているのです。
「羊は気候や食性の面で日本の環境に適応しづらかった」というのが気になりました。
私の理解では草の選り好みや食べられるものに関しては羊のほうが馬よりずっと飼いやすいと思うので。実際、馬が飼われているところで羊が飼えないというのは聞いたことがありません。
なのに馬はたくさんいたのになんで羊がだめだったんでしょうか?
毛織物の技術がなかったとか需要がなかったせいじゃないかと思っていたのですが。
羊は高温多湿の環境を嫌うため、現在でも西日本では飼われていない
日本で羊が飼われているのは北海道、東北、北関東、信越の地域に集中していることを考えればご理解いただけますかね?
もさもさの毛で日本の夏を乗り切るのはキツイよ
どうも羊と山羊を厳密に区別するのは西洋文化特有のようで、インドではヤギ肉のことをマトンと言うようですし、中国でも古来ヤギとヒツジをあまり区別しなかったようなのです。なので日本でヤギとヒツジが現代人から見て混同されていたように見えるのも、誤解というよりはむしろ当時の人々が海外の文物を正しく理解していたがゆえのことなのかもしれません。