なぜ「史上最もキスされた唇」になったのか?
ノルウェーの玩具職人、アスムンド・レールダル(Asmund Laerdal:1914〜1981)は、1940年代初めから子どものための木製玩具を作るようになりました。
レールダルは戦後、大量生産され始めた新素材のプラスチックに目を付け、柔軟で加工しやすいこの材料を使って、玩具を作り始めます。
その中で生まれた有名な玩具が「アン(Anne)」と呼ばれる少女の人形です。
アン人形は、戦後ノルウェーで絶大な人気を博し、ある年の年間最優秀玩具にも選出されています。
そんなある日、麻酔科医のグループがレールダルの元を訪ね、「新たに開発された心肺蘇生法(CPR)を実演するための人形を作ってほしい」と申し出ました。
そこでレールダルは、CPRを開発したオーストリア人医師ピーター・サファル(1924〜2003)をはじめとする研究者たちと共に「救命措置の練習ができる実物大のマネキンを作る」という歴史的なプロジェクトを開始。
レールダルは技術的な問題もさることながら、「人形の顔はどんなものにすべきだろうか」と考えました。
あれこれと思いを巡らす中でピンと来たのが、義父の家の壁に飾っていた美しい少女のマスク、そう「セーヌ川の身元不明少女」だったのです。
こうしてレールダルは、アン人形を作る手法と名前はそのままに、実寸大のボディにセーヌの少女の顔を取り付け、人工呼吸の練習ができるよう唇を開くなどの修正を加えて、CPR用のマネキンを完成させました。
これが「レスキュー・アン」、アメリカでは「CPRアニー(CPR Annie)」と呼ばれる医療用人形です。
1960年代に発売されて以来、このマネキンは史上初、そして最も成功した「患者シミュレーター」として、何億人もの人々がCPRの救助方法を学ぶことに貢献したのです。
また、レスキュー・アンは世界中の心肺蘇生法の講習会でも使われるようになりました。
その中で、彼女のマスクは「史上最もキスされた唇」と呼ばれるようになったのです。
豪ウェストミード小児病院(CHW)のマリノ・フェスタ(Marino Festa)医師は「このマネキンのインパクトは絶大なものでした」と話します。
「レスキュー・アンは実物そっくりの顔を取り入れることで、蘇生トレーニングの臨場感を高め、臨床医と一般人の両方が真剣にCPRトレーニングに取り組み、その結果、人命救助の習得をスムーズなものにしたのです」
現在、ノルウェーに拠点を置くレールダル(Laerdal)社は「救命への貢献」という使命のもと、救命率を高めるための医療プログラムや製品を提供しており、25カ国で2000人以上の社員を抱えています。
余談ですが、マイケル・ジャクソンの名曲「Smooth Criminal」の歌詞にある「Annie, are you OK?(アニー、大丈夫?)」のリフレインは、レスキュー・アン(CPRアニー)に話しかける救命練習の言葉から来ています。
「セーヌ川の身元不明少女」は、人命救助の普及のみならず、世界中に知れ渡る名曲の誕生にも一役買っていたのです。