甲殻類の体を捨ててナメクジになるY幼体

Y幼生は、ふつう私たちが「甲殻類」と聞いて想像するようなエビやカニとは、まったく違う変わった一生を送ります。
生まれたばかりのY幼生は、「ノープリウス幼生(y-ノープリウス)」という非常に小さなプランクトンの形態をとります。
プランクトンとは海中をふわふわ漂いながら生活する生物のことで、Y幼生のノープリウスも体長はわずか0.1ミリほどしかありません。
ノープリウス幼生は体の前方に小さな単眼(ひとつ目のシンプルな目)を持ち、体の両側からは3対の小さな足(付属肢と呼ばれます)が生えています。
この足を動かして泳ぎながら海中を漂い、小さな餌を食べて成長します。
ノープリウス幼生はある程度大きくなると脱皮(古くなった外骨格を脱ぎ捨てること)を何回か繰り返して成長します。
そして十分に成長すると、次の段階である「キプリス幼生(y-キプリス)」に姿を変えます。
キプリス幼生は前の段階とはまったく異なる姿をしています。
一枚の貝殻のような硬い背甲(カラパス)が体の一部を覆い、頭部には小さな複眼があり、体の前のほうから伸びる一対の触角は先端がカギのように曲がっており、このフック状の触角を使って海底の岩や他の生物の表面にしがみつき、自分が生活するのに適した場所を探すと考えられています。
実は、このキプリス幼生という形態は、Y幼生だけが持つ特殊なものではありません。
フジツボの幼生も同じようにキプリス幼生という姿を持っているのです。
フジツボのキプリス幼生の場合、触角から接着剤のような物質を分泌して岩や船底などの表面に貼り付き、一生をその場所に固定された状態で過ごします。
そのためキプリス幼生は、「将来自分が暮らすための家」を見つける大切な時期であると言えます。
ところがY幼生の場合は、フジツボのように岩や船底に固定されるわけではないようです。
研究者たちは長年、「Y幼生のキプリスはどこに定着するのだろう?」という謎に挑んできました。
その大きな手がかりとなったのが、過去に行われた「ホルモンによる変態の誘導実験」でした。
過去の実験で、Y幼生(キプリス幼生)に「甲殻類の脱皮ホルモン」を与えたところ、非常に奇妙な変化が観察されました。
するとキプリス幼生はそれまでの硬い外骨格に包まれた甲殻類らしい姿を脱ぎ捨てて、まるで小さなナメクジや芋虫のような柔らかく単純な体へと変態(劇的に姿が変わること)したのです。
研究者たちは、この全く新しい段階を「ypsigon(イプシゴン)」と名付けました。
イプシゴンは甲殻類としての形態をほぼ完全に失い、足や体の節もなく、自由に泳ぐことすらできなくなります。
それまで持っていた殻のような外骨格も完全に脱ぎ捨ててしまいます。
なぜY幼生はこんなにも劇的な変態をするのでしょうか?
この謎を解くヒントは、同じ甲殻類の中でも寄生生活を送る仲間である「寄生性フジツボ」にあります。
一般的なフジツボは幼生期をプランクトンとして泳ぎ回ったあと、海底の岩や船底にしっかりと貼りついて、硬い殻を作って一生を固定されたまま暮らします。
ところがフジツボの仲間には、他の生き物に寄生して生きる「寄生性フジツボ」と呼ばれる特殊なグループがいます。
彼らは幼生の一生の途中で、硬い甲殻類の姿を脱ぎ捨てて、「vermigon(ベルミゴン)」と呼ばれるナメクジのような柔らかい幼生の段階に姿を変えます。
このベルミゴン幼生は、他の甲殻類(たとえばカニ)の体の中に侵入し、宿主の栄養を奪って成長します。
寄生性フジツボが宿主に寄生する方法も驚くべきものです。
彼らは宿主の表面に自分の体を固定すると、「注入器(ちゅうにゅうき)」という細い管を宿主の体内に突き刺します。
そして、その注入器を通じて自分自身の細胞のかたまりを相手の体の中に流し込みます。
送り込まれた細胞は宿主の体の中で根のように広がり、宿主の栄養を吸収しながら成長していきます。
このような「宿主の体内に入り込んで栄養を奪う」という生活スタイルは、非常に特殊で極端なものです。
ここで、研究者たちはある重要な共通点に気付きました。
Y幼生もまた、ホルモン刺激によってナメクジのような柔らかい幼生(イプシゴン)に変化する性質があります。
さらに詳しく調べたところ、Y幼生のキプリス幼生には宿主の表面にしっかり掴まるためのフック状の触角が発達していることも確認されました。
このことから研究者たちは、「Y幼生も寄生性フジツボと同じように、他の生き物の体内に侵入して寄生する可能性があるのではないか?」と考えるようになりました。
つまりY幼生が「ナメクジのような柔らかな幼生に変態する」理由は、「寄生生活を送るため」である可能性が浮上したのです。
しかしここで、ひとつ大きな疑問が残ります。
Y幼生は本当に寄生性フジツボの仲間なのでしょうか?
それとも、似たような寄生スタイルに別々の系統の生き物が偶然たどり着いたのでしょうか?
もし前者ならY幼生は遺伝的にも寄生性フジツボの仲間であり、後者ならばY幼生は寄生性フジツボとはまったく別の系統の生物で、寄生の仕方が偶然に似てしまったということになります。
そこで研究者たちは、Y幼生とフジツボ類が系統的にどの程度近いのか、遺伝子を詳しく調べてその関係を明らかにすることにしました。