人間が「自分をくすぐる」ことができない理由
アリステレスはかつて「なぜ私たちは自分自身をくすぐることができないのか、またくすぐりを予期したときに、よりくすぐったくなるのはなぜか?」と問題提起を行ったとされています。
この発言記録から解るのは、どうやら古代ギリシャの大哲学者アリストテレスも、他人にくすぐられた経験があるという点。
またアリストテレスも自分で自分をくすぐった経験があり、全然くすぐったくならないという結論に至ったこと。
そして感じるくすぐったさの大きさは、事前の心理状態の影響を受けるものである、という鋭い洞察。
最後にアリストテレスの英知を用いたとしても、くすぐったさの謎は解けなかったという事実があげられます。
しかし近年における科学の発展は、かつてアリストテレスが挑んだ謎の答えを出しつつあります。
たとえば1971年に『Nature』で発表された研究では、間接的に自分をくすぐるためのマシーンが開発され、マシーンを介した自己くすぐりが、直接的な自己くすぐりに比べて若干、くすぐったく感じやすいことが報告されました。
そのため研究では、自己くすぐりが、くすぐったくない原因は、自分で自分に触る「セルフタッチ」を認識するからだと結論付けています。
一方1998年に『Nature Neuroscience』に掲載されたMRIを使った研究により、同じ種類のくすぐりであっても、自分で行う場合には、脳内の体の感覚を司る領域(大脳の体性感覚皮質)の活性が減少しており、小脳の一部がくすぐられたときにみられる反応(くすぐり反応)のキャンセルを行っていることが示されました。
こちらの研究では、自分で自分に触る「セルフタッチ」にはそもそも、くすぐり反応を鎮静化させる作用があるとの結論がなされています。
また2010年に発表された研究では、くすぐるときにラットに対して不安や恐怖を与えると「くすぐり反応」が弱まること、くすぐりが報酬系に関与しており、楽しい気分や快楽との相乗効果を起こす可能性が示されました。
アリストテレスが問うた「自分でくすぐれない理由」と「くすぐられるときの心理状態」の謎を解く鍵は、脳科学にあったわけです。
さらに2019年に『Current Biology』に掲載されたラットを用いた研究では、人間からくすぐられたときに大脳の体性感覚皮質が活性化して笑い声を誘発させていることが判明。
そしてラットがグルーミングなどでセルフタッチを行っている間には、この領域の反応が抑えつけられ低下していることが示されました。
つまり、人間やラットの脳にはくすぐりを検知して笑い声などの「くすぐり反応」を起こす領域があるものの、セルフタッチによってその領域の活動が抑えられてしまうため、自分で自分をくすぐっても、くすぐったくない……という理論になります。
くすぐり反応を起こす中枢がセルフタッチで抑制されるのならば、自分をくすぐれないのも理解できます。
そこで今回、フンボルト大学ベルリンの研究者たちはこの理論からさらに洞察を得るために
「他人にくすぐられているときに、さらに自分で自分をくすぐった場合にどうなるか?」を調べることにしました。
一見すると、子供の夏休みの自由研究テーマのような響きに聞こえます。
しかし、他人にくすぐられることで活性化する脳領域とセルフタッチによって活動が抑制される脳領域は重なっているので、同時に行ったら何が起こるかを調べるのは価値があることです。
なお実験内容は極めて簡潔であり、被験者たちに「くすぐり役」と「くすぐられ役」のペアになってもらった上で「通常のくすぐり」と他人に加えて自分自身をくすぐる「ダブルくすぐり」を行い、くすぐったさのレベルを答えてもらいました。
結果、他人と自分自身の「ダブルくすぐり」は他人からのみくすぐられる場合に比べて、くすぐったさがかなり低下していることが判明します。
研究者たちは、自分自身のくすぐりによって「くすぐり反応」を起こす脳領域が抑制され、総合的なくすぐったさが減少したと結論しました。
もし「くすぐりの刑」に処されることがあったのなら、自分で自分をくすぐることが助かる道になるかもしれません。
次のページでは、くすぐられた人間に起こる不思議な共通性について述べようと思います。
くすぐられた人間は「笑顔」「笑い声」を発しますが、それらには厳密な順番があったのです。