痛みを感じず、傷の治りも早いスコットランド人の女性の秘密を解明
スコットランド人女性のジョー・キャメロン氏は、物心ついたころから、自分が周囲の人々といくつかの点で決定的に違っていることに気付いていました。
周りにいる友達や大人たちは、転んで膝を怪我したり、包丁やハサミで指を切ってしまうと、しきりに「痛がる」様子をみせますが、キャメロン氏は同じ怪我をしても、ほとんど肉体の痛みを感じませんでした。
また他人から悪口を言われたり、不安やストレスによって心が痛む人がいることは知っていても、自分が同じような心の痛みに悩まされることがありませんでした。
そのため若い頃のキャメロン氏はある意味で「恐れ知らず」となり、必然的に多くのトラブルに巻き込まれ、生傷の絶えない生活を送っていました。
ですがキャメロン氏にとって、頻繁な怪我すらも、あまり問題にはなりませんでした。
キャメロン氏の肉体再生能力は常人を遥かに上回っており、子供が負うようなちょっとした傷ならば、直ぐに治ってしまうからです。
「心も体も痛みを感じず、肉体の傷も即座に回復する」
物語のスーパーヒーローにしかないような能力を、キャメロン氏は持っていました。
(※加えてキャメロン氏には「非常に忘れっぽい」という特性もありました)
そんなキャメロン氏が医学界の注目を浴びたのは2013年のことでした。
60代になったキャメロン氏はこのころ、手と腰の大手術を受けることになりました。
しかし痛みをほとんど感じないキャメロン氏は、術後の痛み止めも必要とせず、医師を大いに驚かせます。
さらにキャメロン氏は1年ほど前に股関節に重度の変形関節症を患っていると診察されていましたが、予想されるような激痛を感じている様子もありませんでした。
そのため医師たちはキャメロン氏をユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの疼痛研究者(痛みの専門家)に紹介することになります。
これまでの研究により、痛みを感じない「無痛覚症」と呼ばれる人々がいることは知られていました。
しかし、キャメロン氏は無痛症にみられる遺伝子変異はみられず、無痛症のように痛みを感じる神経が機能しないのではなく、常人に比べとてつもなく高い痛みへの耐性を持っている状態だったのです。
さらに心の苦痛もあまり感じず、傷の治りも早い(加えてかなり忘れっぽい)という珍しい特性も併せ持っていました。
フィジカルもメンタルも強いというのは、まさスーパーヒーローのような特性です。
もしキャメロン氏の体の秘密を解き明かせれば、体の痛みに苦しむ人、心の痛みに苦しむひと、怪我の回復の遅さに苦しむひと、加えて記憶障害の未知の仕組みを含む、膨大な医学的知識を得ることができる可能性があります。
このキャメロン氏に関する研究では2019年に秘密の一端が明らかになり、彼女は「FAHH-OUT」と呼ばれる遺伝子の一部が変異していることが判明します。
「FAHH-OUT」はかつては遺伝情報をもっていない「ジャンクDNA」と呼ばれる領域に存在しており、痛みの感知に重要な遺伝子「FAAH」に何らかの影響を与えていると予測されています。
またキャメロン氏の血縁者である78歳の女性や2人の娘、3人の孫も痛みに対する高い耐性を持っていることが報告されました。
この結果は、キャメロン氏に起きた不思議な変異が遺伝的な変異であり、次世代に継承されていることを示しています。
ただ2019年の調査ではFAHH-OUTの変異がどのようにして、心と体の痛みを消しているか、その具体的な仕組みは不明となっていました。
そこで今回、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの研究者たちは人間の皮膚細胞を用いてキャメロン氏に起きた変異が、他の遺伝子にどんな影響を及ぼすかを網羅的に調べることにしました。
すると予想通りFAHH-OUTには痛みの感知に重要な遺伝子「FAAH」の活性を維持する役目があることが判明します。
キャメロン氏の場合、FAHH-OUTに起きた突然変異のせいで「FAAH」の活動が妨げられ、それが痛みへの耐性につながっていたのです。
しかし変異の影響はそれだけに留まりませんでした。
FAHH-OUTの変異によって影響を受ける遺伝子は膨大な数に及んでおり、797の遺伝子が活性化され、348個の遺伝子が抑制を受けていることが発見されました。
これら影響を受ける遺伝子の中には、傷の治療にかかわるもの(WNT経路)や骨の再生に関与する遺伝子(WNA16)、気分を調節する遺伝子(BDNF)、天然の鎮痛剤(ACKR3)が含まれていました。
この結果は「FAHH-OUT」におきた変異が、傷の治療や気分、天然の鎮痛剤に関連する遺伝子の機能を暴走させたり過度に抑え込んでしまっていることを示しています。
キャメロン氏が心と体の痛みを感じない他に、傷の治りが早かったり、忘れっぽかったりと幅広い特性を持つのも、数多くの遺伝子を統括する調節機能が破綻してしまったからだと言えるでしょう。
研究者たちは今後も、キャメロン氏に起きた変異がもたらす影響を分子レベルで詳細に調べていく、とのこと。
もし研究によって明らかになった1000を超える遺伝子の挙動を理解し、制御できるようになれば、再生能力の増進や心と体の痛みに対処できる新薬開発などにつながるかもしれません。