「織田軍の三段撃ち」も「武田軍の騎馬隊」もなかった長篠の戦い
この長篠の戦いは「織田軍が用意した新兵器の鉄砲が、戦国最強と言われていた武田軍の騎馬隊を打ち負かした」といって教えられており、従来は中世から近世への移り変わりの一つとして捉えられていました。
しかし近年では、長篠の戦いの真実は私たちが想像しているものとは程遠いとの見解が有力です。
長篠の戦いの通説では、織田家が異例の鉄砲3,000丁を使用し、新戦法の三段撃ちを行ったことによって、武田軍の騎馬隊を壊滅させたとされています。
しかし「信長公記」には各武将が持っていた銃兵をかき集めて1,000人ほどの鉄砲隊を作ったとあり、3000丁には遠く及びません。
ただし当時の事情でも1000丁の鉄砲を集めるのは困難であり、1000人の鉄砲隊は十分特筆に値することです。
また、三段撃ちの戦術については実在性が疑われており、明治時代の教科書に記載された後に広まった可能性があります。
ただし、先述のように信長が大量の鉄砲を持ち込んだことは確かであり、戦術の具体的な運用法は不明であるものの、鉄砲隊が部隊単位で集中的に攻撃することで相手軍を消耗させる効果はあったと考えられます。
また織田軍や徳川軍のライバルとして描かれている武田軍の騎馬隊ですが、さまざまな異論が存在しています。
長篠の戦いにおいては、徳川家康が石川数正(いしかわかずまさ)や鳥居本忠(とりいもとただ)に対して武田軍に備えて馬防柵を作るように指示したことから、武田の騎兵が恐れられていたこと自体は真実です。
しかし当時は兵科ごとに部隊を編成していたわけでなく、武将の家来ごとに部隊を編成しており、1人の武将のもとに騎兵や槍兵、弓兵が混在していました。
そのような事情もあるので、武田軍に騎兵だけの騎馬隊があったのかについては懐疑的な声も多いのです。
また当時日本にいた在来種の馬は体が小さく、体高が120㎝ほどと現在のポニーと同じくらいでした。
仮に騎馬隊がいたとしても、大河ドラマのような華々しい活躍を遂げていたかは不明です。
史実との乖離は二つの「信長記」が原因
このように長篠の戦いは史実と通説で内容が乖離していますが、どうしてこのようなことになったのでしょうか?
この理由については、甫庵信長記の存在があります。
甫庵信長記は江戸時代の儒学者の小瀬甫庵(おぜほあん)が書いた書物ですが、これは小説であり、フィクションが多いです。
現在通説として語られている「織田軍の三段撃ち」などここが元ネタであり、信憑性は著しく低いのです。
一方織田信長の研究でよく用いられているのは信長公記であり、こちらは信長の側近を長らく務めていた太田牛一(おおたぎゅういち)が執筆しています。
こちらは年月についてきちんと記されていることから、一次資料に準じた扱いを受けており、先述した甫庵信長記もこの信長公記をもとに作られています。
どちらも信長記として表現されることもあり、かつては混同されることもありましたが、近年では信長公記の記述をもとに検証が行われており、通説が次々と覆されています。