ポーランドの戦争孤児たちを受け入れたマハラジャ
ポーランドの悲劇は、1939年9月にはじまりました。
まず、西側からナチス・ドイツに侵攻され、その16日後にはソ連が東から侵攻してきました。
ポーランドは、ドイツとソ連という2つの大国によって分割されることになったのです。
1940年2月になると、ソ連はポーランド市民の大規模な強制移送を開始。
軍人、公務員、教師、地主などの知識人層とその家族、推定32万人から50万人が、シベリアやカザフスタンの強制労働収容所へ送られています。
移送には、真冬にもかかわらず暖房のない家畜運搬用の貨車が使われました。
多くの人が移動中に命を落とし、生き残った人々も収容所で飢え、寒さ、病気、過酷な労働に苦しみました。
子どもたちのなかには、移送の途中や収容所で両親を失った者もいました。
しかし1941年6月、状況が大きく変化します。
ナチス・ドイツがソ連へ侵攻したため、それまでポーランドを占領していたソ連は、ドイツと戦うためにポーランド側と協力せざるを得なくなったのです。
翌月に結ばれた協定により、ソ連領内に拘束されていた多くのポーランド人が解放されました。
その後、女性や子どもを中心とする数万人のポーランド人が、ソ連からイランへ避難しました。
ところが、イランへ逃れた後に彼らがどこへ行くのかは決まっていませんでした。
ポーランド人難民を英領インドへ移す案も出されましたが、現地の行政当局は難色を示しました。
子どもたちの多くは、結核、発疹チフス、赤痢、栄養失調に関連する病気を抱えており、受け入れには医療、食料、住居の確保が必要だったからです。
インド自身も戦時下の深刻な食料不足に直面しており、大勢の難民を受け入れる余裕はないと考えられていました。
そこで立ち上がったのが、ナワナガル藩王国のマハラジャ、ディグヴィジャイシンジでした。

彼は1895年に生まれ、イギリスで教育を受けた後、軍人として活動し、1933年に叔父の後を継いでナワナガルの統治者となっていました。
第二次世界大戦中には、イギリスの帝国戦時内閣などにも参加しており、そこでポーランド人の孤児たちが置かれている状況を知ったのです。
当時、インドの藩王国の統治者としての権威は、イギリス国王からの承認によって支えられていました。
イギリス側が正式な受け入れ方針を決める前に独断で行動すれば、自らの立場を危うくする可能性もありました。
それでもディグヴィジャイシンジは、戦争孤児たちを自分の客人として迎えると宣言したのです。
彼には、ポーランドとの歴史的なつながりも、難民を受け入れる政治的な利益もありませんでした。
それでも彼は、子どもたちが自分のもとへ送られてきたのなら、世話をすることが自分の務めだと考えたのです。






























