インドの村に誕生した「小さなポーランド」
1942年、ディグヴィジャイシンジは、カーティヤーワール半島の海岸沿いの村に、ポーランド人の子どもたちを受け入れる施設を設けました。
場所は、マハラジャが所有する夏の宮殿の近くでした。
施設は、子どもたちを雨風から守るだけの避難所ではありません。
敷地内には、宿舎、学校、図書館、厨房、カトリック教会が用意されました。
細長い宿舎が数十棟建てられ、それぞれ約30人の子どもが生活できるように設計されていました。
子どもたちと一緒にソ連から避難してきたポーランド人教師が、学校の授業を担当。
当初は校舎として使える建物がなかったため、マハラジャは自分の迎賓館を学校として提供しました。
食事にも工夫が施されています。
ポーランドの子どもたちは、香辛料の強いインド料理に慣れていませんでした。
そのため、マハラジャは地元の料理人を雇い、子どもたちが食べやすいように辛さを抑えた料理を作らせました。
長い間、飢えや病気に苦しんできた子どもたちにとって、施設は初めて安定した生活を送れる場所となったのです。

マハラジャは、子どもたちの生活からポーランド文化を消そうとはしませんでした。
むしろ、祖国を失った子どもたちが、自分たちの文化や民族的な誇りを保てるように配慮しました。
施設では毎日ポーランド国旗が掲げられ、子どもたちはポーランド国歌を歌いました。
カトリックの礼拝や復活祭、キリスト降誕劇といった宗教行事も行われました。
学校では演劇や文化公演が開かれ、サッカー、バスケットボール、バレーボール、フィールドホッケーなどのスポーツも盛んに行われました。
最初はボールさえ不足していたため、子どもたちは宿舎にいる男子の靴下を集めて、自分たちでボールを作ったといいます。
やがて子どもたちのチームは、地元のインド人やイギリス軍のチームと対戦できるほど上達しました。
マハラジャも試合を観戦し、子どもたちに拍手を送りました。
クリスマスには、自らサンタクロースの格好をして施設を訪れ、子どもたちにプレゼントを配ったこともあったと伝えられています。
彼は子どもたちを、単に保護すべき難民とは考えていませんでした。
自らをナワナガルの人々の父を意味する「バープー」と呼び、ポーランド人の子どもたちも自分の子どもだと語ったのです。
戦争中に施設を通過した子どもの総数について、歴史資料は、2歳から15歳までの約600〜1000人としています。






























