孤児を養子にして、ソ連の魔の手から守り抜く
戦争が終わりに近づくと、子どもたちは新たな問題に直面します。
ソ連の支援を受けて成立したルブリン政府の代表者が、孤児は出生国が引き取るべきだと主張したのです。
これは、子どもたちをソ連の強い影響下に置かれた戦後のポーランドへ送り返すことを意味していました。
しかし子どもたちにとって、ソ連は家族をシベリアへ追放し、多くの命を奪った相手でした。
ポーランドへ戻されることを恐れた少年たちのなかには、船で強制送還されるなら海へ飛び込むと訴えた者もいたといいます。
子どもたちの強制帰国を防ぐため、マハラジャは再び行動を起こしました。
マハラジャは、ナワナガルの裁判所が承認する法的手続きを通じて、子どもたちを集団で養子にしたのです。
これにより、子どもたちを本人たちの意思に反してポーランドへ送り返すことが難しくなりました。
同時に国際赤十字が、生存している家族の捜索や、安全な移住先の調査を開始。
その後、戦後に施設を退去する子どもたちの安全な移住先が徐々に決められていきました。
81人は宣教団体の協力によってアメリカへ移住。
ほかの子どもたちも、イギリス、オーストラリア、カナダ、アメリカなどへ移り、一部はポーランドへ戻る道を選びました。
施設を出発する最後の子どもたちの一団は、1946年11月に施設を後にしています。

マハラジャはその後、1966年に70歳で亡くなりました。
その功績は長い間、生存者やマハラジャの家族など、限られた人々の間で語り継がれていました。
後に、ドキュメンタリー映画などを通じて物語が世界に広く知られるようになります。
現在のポーランドでは、彼は「善きマハラジャ」として記憶されています。
首都ワルシャワには「善きマハラジャ広場」があり、彼の名を冠した学校も設けられています。
2011年には、ポーランド大統領からポーランド共和国功労勲章コマンドルスキ十字章が死後授与されました。
誰も手を差し伸べなかったとき、「受け入れる」と答えた
マハラジャが救ったのは、子どもたちの命だけではありませんでした。
彼は、学校を作り、文化を守り、遊び場を与え、子どもたちが再び自分を一人の人間として感じられる環境を用意しました。
そして戦争が終わった後も、子どもたちが恐れていた場所へ強制的に送り返されないよう行動しました。
国籍も、宗教も、言葉も異なる子どもたちを、彼は「自分の子ども」と呼びました。
そこには政治的な利益も、軍事的な目的もありませんでした。
必要としている人が目の前にいたから、受け入れたのです。
戦争の歴史では、ときに、何人を倒したかによって英雄が語られることがあります。
しかし「善きマハラジャ」の物語が示しているのは、何人の命を守ったかによって記憶される英雄もいるということです。






























