医療マスクを世界に広めた人物
医療用マスクの歴史は、疫病の発生とともに始まります。
最も有名なのは、17世紀のヨーロッパでペスト(黒死病)が猛威をふるった際に作られたカラス型の防護マスクでしょう。
しかし、これは口元だけでなく、顔から全身まで覆うもので、現代のマスクとはほど遠いものです。
ペストのマスクが不気味な「カラス型」になったのはなぜなのか? 発明した人物は?
それから1897年に、フランス人医師のポール・ベルガーが初めて、外科手術時にマスクを着用しました。
これは6層に重ねたガーゼで鼻から口を覆い、頭の後ろで紐を結ぶというもので、現代のマスクにぐっと近づいています。しかし、マスクの下部は胴のエプロンに縫い付けられ一体となっていました。
その数十年後の1910年、中国東北部で致死率ほぼ100%の疫病である「腺ペスト」が発生します。
この報が北京に届き、感染拡大を食い止めるために呼ばれたのが、当時31歳の伍連徳でした。
連徳は1879年3月10日に、中国人の両親のもと、マレーシアのペナン島に生を受けました。
非常に優秀な人物で、1896年にイギリス・ケンブリッジ大学に入学し、1903年に医学博士号を取得しています。
北京に呼ばれた連徳は、その地獄のような光景に唖然としました。
シベリア国境沿いの漁師に端を発した疫病は、目まぐるしい勢いで中国に広がり、わずか4ヶ月で6万人を死亡させたのです。
連徳は、腺ペストへの対処法を探るため、中国で初となる遺体解剖に踏み切りました。
これには中国の文化的背景から猛烈な反対抗議が起こったようです。
しかし、解剖のおかげで連徳は、ある新しい考えにたどりつきました。
それは腺ペストの原因であるペスト菌が「ノミやネズミによって伝染するのではなく、人の唾液によって媒介される」というものでした。
つまり、彼は今の私たちには聞き慣れた「飛沫感染」の存在に気づいたのです。
連徳はすぐさま防疫マスクを導入し、ガーゼや保護層を増やして、ズレを防ぐ固定法を改善したニュータイプを開発しました。
これが、現代医療で一般的となっている「N95マスク」の原型とされています。
ところが、連徳の唱えた飛沫感染や防疫マスクは、当時の医学的見地に真っ向から反するものでした。
周囲の医師たちは彼の行動をあざ笑い、満州で一緒に行動していた著名なフランス人医師もマスク着用の要請を批判したのです。
しかし、この医師は皮肉にも、患者の飛沫で腺ペストに感染し、命を落としています。
そこから次第に連徳の主張に賛同する医師たちが増え、マスクの着用が一般人にも浸透するようになりました。
その大きな成果が最初にあらわれたのは、1919年に発生した「スペイン風邪」です。
このときにはすでに医療従事者だけでなく、患者や市民もマスクを着用しています。
それ以後、マスクの有用性は世界中で衆目の一致するところとなりました。
20世紀の半ばまでは様々な形のマスクが特許申請され、現在の使い捨てマスクが一般化されたのは1960年代のことです。
そして、1972年に医療専用のN95マスクが発明され、1995年に伝染病発生時の世界的な医療基準となっています。
連徳自身は、1937年に日本軍が上海を占領した折に故郷へ帰国。クアラルンプールに医療研究センターを設立し、医学会に多大な貢献をしました。
その後、「公衆衛生の父」として多くの医学的遺産を残し、1960年1月21日に生涯を閉じています。
そして今、連徳が生んだマスクは、新型コロナと闘うための最大の武器として、私たちの強い味方となっています。