死刑囚ジョン・ディーリングの不幸な人生
1898年、米イリノイ州シカゴに生まれたジョン・ディーリングの人生は波乱に満ちたものでした。
親の育児放棄により不幸な幼少期を送り、13歳から18歳まで感化院に収容されています。
彼は若い頃から軍隊に入ることを夢見ており、実際にアメリカ合衆国の商船隊入隊したものの、すぐに問題を起こして刑務所に収監され、そこで多くの年月を過ごしました。
ディーリングはのちに「俺は子供の頃から『お前はいずれ捕まって絞首刑になるだろう』と周りに言われていた」と話しています。
結局、彼の荒み切った魂が社会に馴染むことはありませんでした。
1938年5月9日午後9時頃、ユタ州ソルトレイクシティにて、車を盗むために不動産業を営む52歳の男性を射殺。また同年7月29日に強盗を犯し、逮捕されます。
その時点ですでに17年間を刑務所で過ごしていたディーリングは、さらに長い禁固刑を受けることを望みませんでした。
彼の心はもはや「死」だけを見つめていたのです。
![画像](https://nazology.kusuguru.co.jp/wp-content/uploads/2025/02/John_Deering_mugshot.jpg)
8月6日、ディーリングはユタ州の刑務所へ移送されますが、その列車に乗せられる直前にこんな言葉を残しています。
「すべてが虚しいと悟ったよ、死ぬのは怖くない」
ディーリングは男性を射殺して車を奪ったことを後悔していると認め、「裁判のお役所的な手続きは抜きにして、さっさと死刑にしてほしい」と訴えます。
それもあってか異例のスピードで死刑判決が下され、逮捕からわずか3カ月で刑が執行されることになったのです。
人生最後の数週間、ディーリングは自らの人生の罪滅ぼしのためか、模範的な市民になろうとしました。
役所には「子供たちのために公園や体育館をもっと作って欲しい。彼らが健全な活動に集中できるよう、遊びの施設を増やしてあげるべきだ。自分にはできなかったが、子供たちが能力を伸ばせる機会を与えてやってほしい」と手紙を書いています。
また彼は死後に自分の体を医学研究のために提供することを約束しました。
ディーリングはそれについて「俺はようやく一流の教育を受けることができるんだ」と話したといいます。
加えて、彼の体の一部は移植用に使われ、実際にディーリングの目は全盲患者の視力回復に役立ちました。
もう一つ、ディーリングはスティーブン・ベズリー医師の依頼で、ある実験に参加することを承諾します。
それが最初に言った「銃殺刑直前の心拍数を記録する実験」です。
このような実験は史上初めてのことでした。
これはマッドサイエンティストの病的な好奇心を満足させるためではなく、恐怖体験が心臓に及ぼす影響と、心臓が損傷を受けてからどのくらいで死亡するかについて貴重な情報を得るためのものでした。
そしてついにディーリングの刑執行の日がやってきます。