一枚上手の武田信玄、押されっぱなしの徳川家康
徳川家康は今川家が桶狭間の戦いで敗れた直後から独自行動を開始し、1561年に独立を果たします。
当然徳川家と今川家の関係は最悪であり、武田家が今川家との同盟を破棄した後、徳川家は「敵の敵は味方」という理屈で武田家と同盟を結びました。
両者は当初は仲良く今川家の領土に侵攻していましたが、武田家が徳川家が攻める予定の場所まで侵攻するなどといった約束違反をしたことにより、関係は少しずつ悪化していきました。
そのようなこともあって徳川家が遠江、武田家が駿河を一通り制圧し終えた1570年に、両者は絶縁し敵対関係になりました。
なおその前後にて家康は武田家の宿敵である上杉家と誼を通じ、越遠同盟を締結しています。
戦国時代において「敵の敵は味方」というのは同盟を結ぶ際の一番の動機になっていたことが窺えますね。
今川攻めの戦後処理が終わった1572年、武田家は徳川領への侵攻を開始し、徳川軍は遠江・三河国(現在の愛知県東部)で武田軍と対峙することになりました。
家康は信長からの援軍と共に三方ヶ原で武田軍と交戦しましたが、徳川・織田連合軍は惨敗したのです。
家康自身も浜松城に逃げ帰る途中、多くの家臣が死傷する中で命からがら助けられました。
この戦いは三方ヶ原の戦いとして知られています。
その後、武田軍は家康のいる浜松城を素通りし三河国へ進軍しました。
しかし、武田信玄の発病によりこれ以上の進軍は不可能であると判断し、野田城(現在の愛知県新城市)落城後武田軍は甲斐へと引き換えしていったのです。
なお武田信玄は帰路の途中にて命を落としており、生きて甲斐の土地を踏むことはありませんでした。
信玄が自身の死を伏せるように家臣に命令し、信玄は生きていると公表されていました。
しかし家康はそれを怪しみ、信玄の死を確認するために駿河に侵攻し、三河では長篠城を攻めました。
武田軍の抵抗がほとんどなかったため、家康は信玄の死を確信しました。
また、家康は奥平貞能(おくだいらさだよし)の調略を通じて奥三河を奪還し、長篠城(ながしのじょう)(現在の愛知県新城市)に奥平軍を配置して武田軍の再侵攻に備えたのです。