家康のリベンジをかけた長篠の戦い
武田家は信玄の死後しばらくは体制を整えることに終始していました。
しかし1574年、信玄の後継者の武田勝頼(たけだかつより)は家康との攻防を続けながら、東美濃の明智城(あけちじょう)(現在の岐阜県恵那市)や遠江の高天神城(たかてんじんじょう)(現在の静岡県掛川市)を攻略したのです。
その翌年勝頼は、長篠城の攻略に乗り出しました。
武田家は大軍で押し寄せたのに対し、長篠城の守備隊は500人の寡兵だったが、鉄砲や大鉄砲を有しており、谷川に囲まれた地形で猛攻をしのいでいました。
しかし、兵糧蔵が焼失し食糧不足に陥り、落城が迫っていたのです。
そこで城側は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を密使として派遣し、岡崎城にいる家康に援軍を要請することにしました。
鳥居は夜闇に紛れて武田軍の警戒線を突破し、岡崎城に到着すると、既に信長率いる援軍3万人が長篠への出撃準備を進めている情報を把握しました。
鳥居はそれを聞いて即座に長篠城へと引き換えしますが、その途中で武田軍に捕まってしまいます。
勝頼は鳥居に「城に向かって降伏を促せば、命だけは助けてやる」と取引を持ち掛けましたが、鳥居は城に向かって「信長の援軍がすぐにやってくる」と叫びました。
勝頼はこれに怒り、鳥居を処刑しましたが、その報告により城兵の士気は高まり、援軍まで持ちこたえることが出来たのです。
5月18日、信長軍3万と家康軍8,000が設楽原に到着し、野戦築城を行いました。
一方、武田軍は決戦を選び、長篠城の牽制に部隊を残し、本隊は設楽原(したらがはら)に布陣しました。
そして5月21日早朝、設楽原での戦闘が行われ、織田・徳川軍が武田軍を攻撃しました。
戦闘は約8時間続きましたが、追撃された武田軍は10,000人以上の犠牲を出したのです。
結果として織田・徳川軍は勝利し、合戦は終結しました。
織田・徳川軍には主要な武将の戦死者は見られませんでしたが、武田軍の戦死者は多くの重臣や指揮官が含まれており、被害は大きかったです。
勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃へ逃げていきました。