なぜ「情報を消す」行為が物理学の重要課題なのか?

私たちは日頃、パソコンやスマートフォンに保存されたデータを気軽に消しています。
しかしこの「情報を消す」という行為を物理現象として考えた人は少ないでしょう。
多くの人にとって情報とは抽象的な重さも形もない概念であり、物体の融解や核分裂といった物理現象と関連しているとは別のものだとみなされているからです。
しかし物理学者ロルフ・ランダウアーは情報の記録や消去を物理現象としてとらえ1961年、「情報を消すということは必ずエネルギーの代償が必要になる」とするランダウアーの原理を提唱しました。
情報に物理性は存在するのか?
物理的な観点から見ると、情報を消すということは、物体の「状態」を一つに固定し再び情報が得られないようにすることです。たとえば何らかの音があることを示す突起だけで構成されている超簡単なレコードがあるとします。このレコードから「音の情報を完全に消す」にはレコードを削るなどして情報が読み取れない均一のツルツルの状態へとシフトしそのままで固定される必要があります。このような特定の状態を作ることは物理的には乱雑さ(エントロピー)を減らすという行いと解釈されます。情報が刻まれた状態はある種の複雑さを持っていますが、情報を消すことで複雑さを持たない状態に移行できるからです。そして熱力学の第二法則によれば、ある物体の乱雑さ(エントロピー)を減らす操作を行うと、必ず外部(環境)に熱エネルギーが放出されるとされます。実際問題、摩擦熱という熱の放出なくして、レコードを削ることは不可能です。これは摩擦にかんする常識に思えますが、熱力学の第二法則を最もわかりやすく反映した現象と言えるでしょう。より直感的に言えば、環境の中でこっち(レコード)で乱雑さを減らすという、ある意味で人工的な操作を達成するには、周囲の環境に乱雑さの元となるエネルギーをまき散らす必要があるわけです。つまり、情報を消去することは「必ず環境にエネルギーを放出する」ことを要求する、完全に物理的な現象であり、情報とエネルギーは切り離せない関係にあるわけです。
この原理に従えば、27℃の室温で1ビットの情報を消去するには、情報を記録している物体から最低でも2.87×10⁻²¹ Jのエネルギーが環境に放出されなければならない計算になります。
これは非常に小さいため、日常生活では意識することもありませんが、コンピュータ上であれ量子系であれ、情報の消去(忘却)は物理的なエネルギー変化を伴う過程であることを示しています。
しかし「情報を消去する」とは物理的に具体的にはどういう現象なのでしょうか?
従来、このランダウアーの原理は主に従来型の計算機や比較的単純な物理実験において検証されてきました。
たとえばナノサイズの磁気メモリや単一原子のレベルのメモリを使用した実験では、確かに、情報1ビットを消去する際に理論が予測する通りのエネルギーが熱として観測されることが示されてきました。
しかし、量子コンピュータのような複雑な量子多体系になると、単純な実験で確かめるのは容易ではありません。
複数の量子粒子が絡み合い、環境との相互作用も複雑化するため、「情報を消去する」という操作が具体的にどういう現象なのかを捉えること自体が難しくなります。
そこで研究チームは今回、この謎めいた量子世界に焦点を当て、量子多体系で情報を消去した時に起こる現象の正体を突き止めることを目指しました。
果たして、量子世界における「情報の消去」とは具体的にどのような物理現象なのでしょうか?