現在のフリーランスに近かった浪人
一般的に浪人は「主君に仕えていない武士」を指すイメージがあり、時代劇などでは「お尋ね者」や「さすらいの旅をしている武士」といった役割で登場することが多くあります。
江戸時代の浪人は武士としての公的な身分こそ失っていたものの、名字帯刀が許されているなど、世間一般からは武士として扱われていました。
その日常生活は後述するような例外を除けば一般の町人と同じであり、手工業や日雇い労働で日銭を稼いでいたのです。
そんな浪人ですが、他の武士から浪人であるという理由だけで軽視されていたわけではありません。
例えば弘前藩(現在の青森県西部)では、家来が「武芸の修業がしたい」と届け出をした書物が残っており、そのときに家来が修業をつけてもらう予定の師匠についても書かれています。
その多くは他の藩に仕えている武士のもとで修業をすると申告しましたが、中には浪人中の人物の元で修業をする予定であると申告したものもおり、それに対して特段変わったことであると捉えられていた訳ではありません。
このように浪人が武芸の師匠として身を立てていることは決して珍しいことではなく、中には宮本武蔵のように多くの弟子を抱えた道場主になったものもいます。
こうした一流の武芸の師匠の中には、「制約の多い藩に仕えるよりも、あえて浪人のままでいた方が活躍の幅が広がる」といって藩からのスカウトを断り続けてフリーランスで活動を続けているものさえいたのです。
また、「主君に仕えていない武士」ではない概念で「浪人」という言葉が使われていたこともしばしばみられました。
例えば「浪人医師」や「浪人儒者」が藩邸を訪れたという記述もあり、当時の武士は「仕え先のいない専門職」くらいのカジュアルな感覚で浪人という言葉を使っていたことが窺えます。
江戸時代の医師や儒者は大名に仕えている場合は武士の身分が与えられたため、「主君に仕えていない武士」と捉えられなくもないですが、それでも後世の私たちが想像する「一匹狼の用心棒」みたいな浪人像とは大きく異なっていたようです。