勝者には特権が与えられたものの、批判も多し
また先述したように、4大競技大会で与えられる主催者からの賞品は植物の冠だけだったものの、勝者は本国に帰れば様々な特権に預かることができました。
例えばアテネでは大会の勝者は劇場の優先席や迎賓館での食事提供などといった特権を生涯にわたって受けることができました。
現代でも競技大会の勝者は多大なる名誉を手に入れることができるため、こうした公に認められた特権以外にも当時の大会勝者が様々な場面で有形無形の優遇を受けていたであろうことは想像に難くないでしょう。
しかしこうして競技大会の勝者になった人の存在は広く知られているのにもかかわらず、史料上に先述した特権の享受者として登場するのは軍人や弁論家がほとんどであり、競技大会の勝者が登場することはあまりありません。
このようなことから、競技大会で勝利したからといってそれが軍事や政治にかかわる活動で優位に働くものではなかったことが窺えます。
こうした特権に批判する声がなかったわけではなく、哲学者のクセノファネスは「すぐれた知恵より体力を尊ぶのは正しいことではない」と、競技大会の勝者に特権を与えることに難癖を付けていました。
またアテナイの弁論教師であったイソクラテスは、「運動競技で活躍した者を大きな褒美で報いることを当然として、知恵や刻苦勉励によって有用な発見をした人を顧みない国々のあることを不思議に思っています」と、競技大会の勝者ばかりを優遇して、知恵者を軽視する風潮に警鐘を鳴らしていました。
さらにこうした特権を手に入れるために大会で不正をするものも多く表れており、競技で反則を行って勝つものや審判を買収して自分に有利な判定を出すようにするものが多く表れました。
特に古代オリンピックではそれが顕著であり、買収を行ったものには多額の罰金と大会からの追放が言い渡されたのです。
この罰金をもとにオリュンピアでは「ザーネス」という不正を象徴するゼウス像が作られましたが、時代が下るにつれてゼウス像の数は増える一方であり、最終的には16体のザーネスがそびえたつこととなりました。
オリンピックに限らずスポーツ大会ではしばしば「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という標語が掲げられていますが、この標語の元ネタは古代ローマの詩人のユウェナリスの詩であり、実際は
orandum est ut sit mens sana in corpore sano.(健全なる身体には、健全なる精神が宿ればいいのになあ)
という願望を言っている形になっています。
つまりこの言葉は、先述した事実を踏まえると、古代ギリシアにも健全な精神を持っていないアスリートが多かったことを象徴しているのです。
今回のパリ2024オリンピックのいくつかの報道を見ていると、この気持ちが理解できるという人は多いかもしれません。
面白いですね
関連で「スポーツ経験者の方が対照群より不正しがち」みたいな論文があった気がするので取り上げて欲しいです