元藩主に譲渡された犬山城、地元住民の尽力で守り抜いた松本城

一方廃城となった城は、まず大蔵省の管轄下で詳細な調査が行われました。
大蔵省は各府県に城郭・陣屋といった建物から樹木や土木に至るまで面積を報告するよう命じたのです。
さらに城の中にある建物や樹木について「相当の代価」を調べ、提出させました。
その後これらの城は、競売にかけられたり他の施設に作り替えられたりします。
たとえば佐賀城(佐賀県佐賀市)や府内城(大分県大分市)などは城の中の建物が行政庁舎として使われました。
変わった例としては三原城(広島県三原市)があり、海軍省が提督府設置を目指し、城の一部を買収しました。
しかし最終的に鎮守府は呉に置かれることとなり、三原城は実質的に廃城のまま解体されることとなったのです。
なお三原城の城跡はその後、山陽鉄道(現在のJR西日本の前身)の駅の用地として転用されました。
さらに廃城を教育施設として再利用する動きも見られました。
学制公布後、廃城を学校の敷地に転用する動きが進み、旧陣屋や城跡に多くの学校が開校されたのです。
日出城(ひじじょう)(大分県日出町)では本丸御殿が小学校として利用され、櫓も教室に転用されました。
その中でも多かったのは、城跡を公園として整備する動きです。
たとえば高知城は本丸御殿を「懐徳館」、天守を「咸臨閣」と改称し、敷地を整備して公園化しました。
二の丸などの建物は入札で払い下げられて壊されたものの、天守と追手門は保存され、高知城は城跡公園として城郭の景観を色濃く残すことになったのです。

また現在は国宝として知られている犬山城(愛知県犬山市)も、地元の村が主導して、城の敷地を公園化することで生き延びました。
幕末以来の城郭景観を生かし、天守を公開して見物料を取り、観光地化を図ったのです。
しかし1891年(明治24年)の濃尾地震によって天守が大破すると、県は財政難を理由に自力での復旧を断念し、かつての犬山藩主である成瀬正肥(なるせまさみつ)に払い下げました。
なお城の修復が払い下げの条件として課されており、その後成瀬らによって犬山城は修復されたのです。

同じく国宝として知られている松本城(長野県松本市)の天守も競売にかけられたものの、地元の有力者が買い戻したことにより、何とか解体を免れました。
なお有力者たちは資金を集めるために一旦競売の延期を申請した上で天守を借りて博覧会を開き、そこでの利益を使って天守を買い戻したのです。
しかし明治30年代頃から天守が大きく傾くようになり、地元の有志らによって「松本天守閣天主保存会」が設立され、修理費の寄付が呼びかけられました。
その甲斐あって1903年(明治36年)より城の修理が始まり、松本城は難を逃れたのです。
一方、明石城(兵庫県明石市)では1881年(明治14年)、兵庫県が櫓を小学校建設用材として取り壊そうとしたため、500名を超える士族が籠城を示唆して抵抗する動きがありました。
これに対して県は「風致に益するものは人民の適宜に任せて保存を容認する」と方針転換、これにより2棟の櫓が保存され、城跡公園として整備される契機となったのです。
こうして廃城は、早期の建物払下げ・解体を経ながらも、土地・石垣・樹木は一部保存され、行政庁舎や学校、公園、あるいは鉄道用地へ転用されました。
地域や旧藩士の保存運動を背景に景観としての価値が再評価される例もあり、多様な運命をたどったのです。
さまざまな偶然や有力者の尽力によって解体を免れた城は今日ではランドマークとして地域の中心にあり、そうでない城も公的機関の庁舎や公園などに生まれ変わり、形を変えて地域の中心にあります。
江戸時代から現在に至るまで、城は多くの地域でその中心にあり続けていると言えるでしょう。
壊さないで残しておけばインバウンド客向けの観光資源になったのに…。