10万円で売られた姫路城、大隈重信の説得で命脈を繋いだ彦根城

江戸時代は日本全国に約300もの藩があり、城を持つことができなかった藩もあるものの、ほとんどの藩は拠点となる城を持っていました。
しかし明治政府は1871年(明治4年)に廃藩置県を行い、それに伴って各藩の持っていた城は陸軍のものになったのです。
その後1873年(明治6年)、明治政府は全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)を通達しました。
これは陸軍の持っていた城を引き続き陸軍のものとして扱う城と大蔵省(現在の財務省の前身)に移管して大蔵省で処分する城の2つに分けるようにするという命令であり、前者の城は存城処分に、後者の城は廃城処分となりました。
存城となった城は、軍事拠点としての活用や行政利用を念頭に、政府からさまざまな処遇を受けます。
城に建てられている建物の多くは、軍事施設を建てるために取り壊されました。
たとえば名古屋城(愛知県名古屋市)では二の丸御殿や櫓、門が解体され、歩兵連隊の兵舎や練兵場が建設されたのです。仙台城(宮城県仙台市)では本丸御殿が取り壊され、石材が他の営所建築に転用されました。
また国宝として知られている姫路城(兵庫県姫路市)は一旦存城となったものの競売にかけられ、23円50銭(換算方法で差があるが現在の価値で大体10万円)で落札されました。
なお購入したのは姫路の商人で姫路城の建材(瓦や釘、木材など)を転売・再利用する目的だったといいますが、サイズが大きすぎて城の瓦を一般家屋に流用することが難しく、また莫大な解体費用がかかるということもあり、購入後結局その権利を放棄しました。
その後姫路城は陸軍の手に戻り、城の敷地内には軍事施設が多く建てられたものの天守はほとんど手入れされず、そのこともあって天守の腐敗が進んできました。
その状況を見かねた軍人の中村進一郎(なかむらしんいちろう)は政府に請願し、1879年(明治12年)に姫路城は先述した名古屋城とともに保存されることが決定します。
しかし肝心の修復の工事はなかなか進まず、修復工事が本格的に始まるのは1910年(明治43年)まで待たなければならなかったのです。

彦根城(滋賀県彦根市)も姫路城と同じく一旦は存城となったものの、老朽化を理由に競売にかけられ、破却の危機にありました。
しかし大隈重信の説得により、城の保存が決まったのです。
最終的に陸軍から皇室付属地彦根御料所(こうしつふぞくちひこのごりょうしょ、皇室の直轄地)になった上で、天皇からかつての藩主の井伊直憲(いいなおのり)に下賜され、彦根城は井伊家によって管理されることになりました。
一方戊辰戦争によって被害を受けた城の中には、復旧困難と判断され廃棄された城も多かったです。
たとえば、会津若松城(福島県会津若松市)や盛岡城(岩手県盛岡市)などは戦禍で損壊したまま放置され、老朽化を理由に解体された例があります。
こうして存城となった城は軍事施設へと転換され、旧来の城郭景観は急速に変容しました。
最終的に、廃却や買い上げ、要塞化の名の下で破却が進められ、その多くは現在に残る壮麗な城の姿を失ったのです。