がん細胞は隣の神経から『エネルギー工場』を奪っていた

がん細胞が神経細胞と接することでどのような恩恵があるのか?
この疑問に答えるため、研究者たちはまず、がんの転移に神経がどのように関係しているのかを調べました。
マウスの乳がんモデルを使い、がんの周りにある神経からがんへの信号をボツリヌス毒素(ボトックス)でブロックし、その影響を観察したのです。
すると、神経からの信号が届かなくなったがん細胞は、エネルギーを作る能力が低下し、成長が遅くなり、周囲の組織への広がり(侵襲性)も弱まることが確認されました。
この結果から、神経からの何らかの刺激が、がん細胞のエネルギー代謝を支えている可能性が浮かび上がりました。
では、神経細胞はがん細胞に対して具体的にどのような「援助」をしているのでしょうか。
この謎を解明するため、研究チームは乳がん細胞と神経細胞を同じ培養皿で一緒に育て、高性能の顕微鏡を使って詳しく観察しました。
すると、がん細胞が神経細胞と密接に接触し、まるで「橋」を架けるように細いトンネル状の管でつながっていることが明らかになりました。
この「橋」を通して、神経細胞のミトコンドリア(細胞内のエネルギー工場)が、まるで列車が線路を走るように次々とがん細胞へ移動している様子が確認されたのです。
ミトコンドリアが細胞のエネルギー工場と言われる理由
ミトコンドリアはしばしば「細胞のエネルギー工場」と呼ばれています。その理由は、ミトコンドリアが私たちが食べた食物や吸った酸素から、細胞が活動するためのエネルギーを作り出しているからです。具体的には栄養を酸素で燃やして発生したエネルギーをエネルギーの通貨と呼ばれる「ATP(アデノシン三リン酸)」という物質に変換して細胞に提供しているのです。細胞はこのATPを使ってさまざまな作業(分裂、成長、筋力、思考)を行います。私たちがスマートフォンを使うときにバッテリーから電気を取り出すように、細胞はミトコンドリアが作ったATPを使って動いているのです。だからこそ、ミトコンドリアは「細胞のエネルギー工場」と例えられるのです。私たちの先祖(古細菌)は地球に酸素が増えてくると酸素を使ってエネルギーを作れるミトコンドリアの先祖を細胞内部に取り込み、自らも酸素を使う能力を獲得しました。そのためミトコンドリアの増加はエネルギー工場の増加と同じように細胞の総合的な出力を増加させる効果が見込めます。
次に実際にどれくらいのミトコンドリアが移動しているのか調べるため、研究チームは神経細胞とがん細胞のミトコンドリアに、それぞれ異なる色の蛍光ラベルを付けました。
神経細胞は緑色、がん細胞は赤色に光らせ、ミトコンドリアがどこに移動したかを正確に追跡しました。
その結果、神経細胞の緑色のミトコンドリアが赤色のがん細胞の中に入り込み、多くのがん細胞が「二色」のミトコンドリアを持つようになっていました。
また、両者が物理的に直接触れ合っている時にこの現象がよく起こり、接触を遮断すると、ミトコンドリアの受け渡しはほぼ起きませんでした。
さらに、この「橋」を作るトンネルの形成を薬剤で邪魔すると、ミトコンドリアの受け渡しは大幅に減少しました。
これにより、このトンネル状の「橋」がミトコンドリアの移動に重要な役割を果たしていることが裏付けられました。
神経細胞からミトコンドリアを受け取ったがん細胞は、一体どのような変化をするのでしょうか。
ミトコンドリアをもらったがん細胞を詳しく調べると、他のがん細胞よりもエネルギー生産(ATPの生成)が大きく増え、活発で元気な状態になっていました。
さらに、転移の過程でがん細胞が遭遇する厳しい環境、例えば血流による強い力(せん断ストレス)や、活性酸素による攻撃に対しても、神経からミトコンドリアを受け取った細胞の方がはるかに生き残りやすいことが分かったのです。
つまり、神経由来のミトコンドリアを手に入れたがん細胞は、まるで特殊な「エネルギータンク」を手に入れたように強化され、過酷な環境にも耐えられる「エリート」細胞になっていました。
しかし、こうした「エネルギーを受け取ったがん細胞」は体の中で最終的にどこへ向かうのでしょうか。
研究チームは、この疑問に答えるため、「MitoTRACER(ミトトレーサー)」という新しい技術を開発しました。
MitoTRACERは、神経からがん細胞にミトコンドリアが移った時にがん細胞が蛍光の色を変えるという仕組みで、一度色が変わったがん細胞は、その後もずっと同じ色を保ち続けることができます。
この仕組みを使って、マウスで乳がんの転移を詳しく調べたところ、神経細胞からミトコンドリアを受け取ったがん細胞は、受け取っていない細胞よりも肺や脳といった遠く離れた転移先で圧倒的に多く見つかりました。
つまり、神経細胞から受け取った「エネルギータンク」を持つがん細胞は、転移した臓器の厳しい環境にも適応しやすく、生き延びて増殖できる可能性が極めて高いことが分かったのです。