たった1%の脳細胞が「負けて引き下がる」を決めていた
動物たちの世界でも、ボス争いにはちょっとしたドラマがあります。
研究チームが用いたマウスの実験では、こんなドラマが起きました。
まず研究チームは、オスのマウスを数匹ずつケージ(檻)の中で同居させました。
動物社会には自然と力関係、つまり序列(順位)が生まれます。
その順位を客観的に調べるために、「ドミナンスチューブテスト」と呼ばれる方法が使われました。
これは透明な細い筒の両端から2匹のマウスを同時に入れ、真ん中で鉢合わせさせる実験です。
筒の中ではすれ違う余地がありません。
そこで、必ずどちらか一方が相手を押し戻して筒の外に追い出すことになります。
先に後退した方が負け、押し切った方が勝ち、というシンプルな勝負です。
こうして各ケージ内で、すべてのマウス同士の対戦を何日も繰り返し行いました。
この「総当たり戦」の結果から、グループ内での順位(ボスと下位)がはっきり決まりました。
ここからが本番です。
研究者は、他のケージから同じ順位のマウスを選び出し、「他所のボス同士」「他所の下位同士」をそれぞれ対決させました。
つまり、他のケージのマウスと競争してもらい、「外の世界で勝ち負けの経験」をさせたのです。
すると、驚くような変化が起きました。
自分のケージでは常に勝ってボスだったマウスでも、他のケージの強い相手に負けを経験すると、途端に自分のケージ内での順位も下がってしまったのです。
実際、外部対戦で負けを経験したボスマウスの多く(約3分の2=6/9)は、その後に自分より下位の仲間にも負けて、ボスの地位を明け渡してしまいました。
逆に、外部で勝った経験を積んだ下位のマウスは、自分のケージ内でも格上の相手に勝てることがありました。
いわば「下剋上」です。
さらに面白いことに、マウスの体重(体格)と順位には関係が見られませんでした。
普通は「力の強いマウスがボスになるのでは?」と思われがちですが、実は体の大きさよりも、勝敗の経験が順位を決める要素の一つである可能性が高いのです。
マウス社会でも「勝ち癖」や「負け癖」が順位を決めているんですね。
では、このような勝敗経験を受けてマウスの態度が変わる仕組みは、一体どのように脳で作られているのでしょうか?
そこで研究チームが注目したのは、「線条体背内側部」という脳の一部分です。
線条体という場所は、脳の奥深くにあり、私たちがそのときどきの状況に応じて行動を選択したり、柔軟に切り替えたりする働きを支えています。
特に線条体の中の背内側部分(略称:DMS)には、「コリン作動性介在ニューロン」という珍しい神経細胞が存在しています。
この細胞は脳内物質「アセチルコリン」を放出し、周囲のニューロン(神経細胞)の働きを調整します。
いわば脳内の指揮者のような存在で、数は脳内の細胞のたった1%程度しかいないにもかかわらず、大きな影響力をもつと考えられてきました。
研究チームは、この細胞こそが勝敗によってマウスの行動を切り替えるスイッチではないかと考えました。
そこで特殊な遺伝子技術を使って、線条体背内側部のこのニューロンだけを選んで機能しないように操作しました。
つまり、この細胞を働かないようにしたマウスを作ったのです。
するとどうでしょう。
興味深いことに、敗北した後に順位が下がるという「敗者効果」が、以前よりも弱まりました。
一方、勝った経験によって自信をつける「勝者効果」の方は、特に明確な差は見られませんでした。
この結果から、線条体背内側部のコリン作動性介在ニューロンは、「負けた経験を受け入れて行動を変えるかどうか」のスイッチとして働く可能性が示されました。
言い換えると、この細胞が正常に働くことで初めて、「今回は負けたからおとなしくしよう」という判断が可能になるのかもしれません。
逆に、この細胞が働かないと、マウスは負けても行動を変えにくく、順位の変動が起きにくいというわけです。
研究チームはさらに仮説を立てています。
それは、勝者効果と敗者効果は、脳内の別々の回路で作られている可能性があります。
勝者効果は、勝った経験が「ご褒美(報酬)」として脳に刻まれる回路で作られ、敗者効果は、負けた状況に合わせて行動を切り替える回路で処理されるというものです。
今回、敗者効果だけが弱まった結果は、この仮説を支持する証拠となり得るでしょう。
この発見は、動物の社会的順位が柔軟に変動する脳内の仕組みを示す初めの一歩と考えられます。