「個人的な経験」ではなく「全体の評判」だった
普通に考えれば、メスが特定のオスを避ける理由としてまず思いつくのは、「過去にそのオスに襲われた経験があるから」というものでしょう。
嫌な思いをした相手の声を聞いて、思い出して逃げる——人間の感覚にも馴染みやすい説明です。
ところが、研究チームが詳しく分析してみると、そう単純な話ではなかったのです。
メスの逃げ方をもっともよく説明したのは、「そのオスが、自分に対してどれくらい強引だったか」という個別の履歴ではありませんでした。
それよりもはるかに強く効いていたのは、「そのオスが、メス全体をどれくらい執拗に囲い込んできたか」——つまり、そのオスの”全体的な評判”のほうだったのです。
これはつまり、メスたちは「私とあいつ」という一対一の記憶だけで動いているのではない、ということです。
「あいつは、メス全般に対して、よくこういう振る舞いをするオスだ」という、もっと広い情報を、頭の中に持っている可能性が出てきたのです。
では、その情報はどこから来たのでしょうか。
研究者たちが可能性の一つとして挙げているのが、他のメスの体験を見て学ぶというルートです。
専門的には「観察学習」と呼ばれる仕組みに近いものです。
シャーク湾のメスのイルカたちは、しばしば集団で行動しています。
あるメスがオスたちに囲い込まれているとき、別のメスたちはそれを近くで目撃することがあります。
さらに囲い込みを受けているメスに、別のメスが支え合うように寄り添う場面まで観察されています。
つまり、メスたちは「あのオスは、あのメスにあんなことをしていた」という光景を、繰り返し見ているわけです。
そうした目撃の積み重ねが、メスの頭の中に「要注意なオスのリスト」のようなものを作り上げているのかもしれません。
自分が直接被害に遭わなくても、他のメスの体験から学んで、危険な相手を先回りで避ける。
もしこの可能性が正しければ、人間以外の動物ではなかなか確認しにくい、高度な社会的学習の一例ということになります。
今回の発見は、もうひとつ思いがけない含みを持っていました。
それは、オス側の進化的なジレンマです。
オスのイルカたちは、仲間と協力して繁殖競争に勝ち抜くために、鳴き声を上げることで連携します。
同じ研究チームの過去の研究では、オスたちが「あいつは協力してくれる仲間だ」と声で識別し合っていることもわかっています。
しかしその鳴き声は仲間のオスだけでなくメスにも聞こえてしまい、評判の悪いオスほど、鳴いた瞬間にメスから「あ、来た」と察知され、避けられる可能性があります。
「鳴けば連携しやすい、でも鳴けばバレる」というジレンマです。
論文でも「鳴き声でメスに気づかれて避けられることで、強引なオスは交尾機会を失うリスクがある」と述べています。
もちろん、今回の研究には限界もあります。
実験に参加したメスは17頭で、決して大きなサンプルではありません。
メスがどんな仕組みでオスを記憶しているのか、その認知の細部もまだ完全には解明されていません。
それでも、声だけで個体を識別し、過去の振る舞いに応じて行動を変えるという能力を、野外実験と長期記録を組み合わせて示した意義は大きいといえるでしょう。






























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