シュレーディンガーが嫌った量子力学
シュレーディンガーの猫の話を聞いてモヤモヤしている人は、おそらく「観測するまで物事の状態は確定しない」という問題と、単純に「見るまで答えがわからない」という問題の違いが、自覚できていない可能性があります。
シュレーディンガーの猫は、この2つの考え方の違いを指摘する問題でもあるため、ここが曖昧なままでは理解することができません。
そのためもう少し掘り下げてこの点について考えてみましょう。
まずこの問題をわかりやすくするために、簡単な例えを考えてみます。
ある箱の中に赤いボールか青いボールのどちらかを入れたとしましょう。これはまったくランダムに誰の手を介することなく誰にも気づかれずに入れるとします。
このとき、この箱の中には何色のボールが入っているでしょうか?
アインシュタインは「当然、それは赤か青のどちらかに決まっている」と答えます。
「わからないのは私たちにそれを決定するための情報が不足しているからであって、箱の中身は最初から決まっているはずだ」というのが彼の解釈です。
つまり「観測するまで答えはわからず確率でしか言えないが、正解は最初からこの世界に存在している」というのがアインシュタインの考え方です。
ところが、ボーアは「箱を開くまでボールの色はこの世界で決定されておらず、開いて観測した瞬間に青(または赤)に確定する」と言っているのです。
そのためボーアは、箱の中身を赤と青のボールが50%混合した状態だと表現します。
何の仕掛けもないのにころころと色が変化するボールなんてあるわけがないので、これはおかしな理屈だということは理解できるでしょう。
この場合、アインシュタインがいかに当たり前のことを言っていて、ボーアがどれほどおかしなことを言っているかがよく分かると思います。
もちろんこれはマクロなボールの話であって、量子論の解釈を説明する上で適切な例だとはいえません。
しかし、アインシュタインはシュレーディンガーへ宛てた手紙の中で、似たような例えを使ってボーアの考えを批判しました。
「翌年中に爆発する不安定な火薬樽があったとして、それが一年後、爆発した状態と爆発していない状態の中間だなんて、まともな記述じゃないでしょう。そんな状態の樽は現実に存在していないのですから」
つまり、「私たちの身近な出来事として考えたら明らかに辻褄の合わないおなしな理屈なのに、量子力学ではそれが成り立つというのは変じゃないか? なにか重要な点を見落としているんじゃないか?」というのがアインシュタインの考えだったのです。
そして同様の意見を持っていたシュレーディンガーは、この手紙に書かれた量子力学の奇妙な振る舞いを、マクロな世界に置き換えた例え話をとても気に入ったのです。
マクロな世界と量子の世界はまるで異なる世界だけれど、もしこの2つ世界の現象を繋げることができたなら、コペンハーゲン解釈の問題点を指摘できるじゃないか!
そう考えたシュレーディンガーは、この手紙の例え話を参考にして、翌年に「シュレーディンガーの猫」という思考実験を考案して発表したのです。
このときシュレーディンガーは、猫の生死が観測の瞬間に決まっているのではなく、私たちがわかっていないだけで箱の中ではすでに決定されているはずだと考えていました。
しかしコペンハーゲン解釈に従うと、箱の中の猫は生きている状態と死んだ状態が50%の確率で重なり合っており、箱を開けるまで確定しないことになります。
つまり、「シュレーディンガーの猫」とは、このコペンハーゲン解釈に対して「そんな馬鹿なことあるわけ無いでしょ?」と否定するつもりで考え出されたお話しなのです。
だからこの話しはほとんどの人から見て、「これって本当の話なの? そのまま信じてしまっていいの?」と疑問を抱かれるように作られています。
ところが、現代の人がこの話を聞く時は、シュレーディンガーの意図とはまったく逆の意味で説明されていると思います。
つまり、箱の中の猫は「生と死が重なり合った不可思議な状態になっている」と説明されるのです。
これが、聞いた人の多くになんだかわかったようなわからないようなモヤモヤした感覚を与える原因になっているのでしょう。
ではなぜ現代では、シュレーディンガーの意図とは逆の意味で、シュレーディンガーの猫の話しが使われるようになってしまったのでしょうか?
次項では、「シュレーディンガーの猫」という思考実験の正確な内容とともに、オチの意味が逆になってしまった理由を解説します。