垂直のはずの建物が斜めに見える原因とは?
本研究ではまず、通常の実験室内で、参加者に垂直と感じる角度に棒の向きを合わせてもらう実験を行いました。
ここでは以下のような棒と木製の台を使った装置が用いられ、「触覚による主観的な垂直 (SHV:Subjective Haptic Vertical)」を測定します。
参加者は「ここが垂直だ」と感じる角度に棒を合わせ、それを棒の回転軸の中心に設置された角度測定器が読み取ります。
実験室で参加者の身体を傾けても、目は開けた状態でこの実験を行うと参加者はみな正しい垂直位置を推定でき、実際の垂直状態との誤差は1度以下でした。
続いて、香港の観光名所となっているビクトリアピークに登るケーブルカー「ピークトラム」の中で、同じ実験を実施しました。
ピークトラムは目的地に向かって斜めに傾斜して登っていきますが、その際に、街中の建物が斜めに見えることで知られています。
これは多くの人が自分の感じる垂直方向と、実際見えているものの垂直方向がズレてしまっていることを意味します。
実際動くケーブルカーの中で実験を行うと、実験室内での結果とは異なり、確かに参加者が推定する垂直方向は正しい垂直方向と大きな誤差を生んでいました。
研究チームは、この誤差を生み出す原因を特定すべく、追加実験を行いました。
この問題の原因を洗い出すためには、錯視の要因となりそうなものを1つずつ除外して垂直方向を正しく推定できるか確かめる必要があります。
そこでチームはまず、参加者が視覚の影響を受けないよう、目を閉じて垂直方向を推定してもらいました。
次に、座席の背もたれ部分に楔形の板を入れて上半身の角度を調整し、身体を垂直にすることで身体の傾きの影響も除外して実験をしてみました(下図を参照)。
しかしどちらの実験でも、ケーブルカーの走行する坂道の傾斜が大きくなるに連れて垂直方向の推定に大きな誤差が生じてしまいました。
つまり、視覚や身体の傾きは、ケーブルカーの中で建物が傾いて見える錯視と関係していなかったのです。
どうやら要因は他にあると考えられます。
続いてチームは、身体の動きの影響を2つの条件下で検証しました。
1つ目は「ケーブルカーの動きをなくした条件」での実験で、通常の室内で歯科治療用の椅子を使って背もたれを倒し、動かない状態で垂直方向を推定してもらいます。
背もたれの傾きは大きく倒した場合(26度)とあまり倒さない場合(6度)で行われています。
するとこの実験ではケーブルカーとは異なり、参加者は正しい垂直方向を示すことができたのです。
2つ目は「ケーブルカーの傾き自体をなくす条件」です。
この実験は香港市内の平坦路を走る路面電車の中で行われました。
こちらも目は閉じた状態で、背もたれはあまり倒さず(6度)で行われました。
そしてこちらの実験でも、参加者は正確な垂直方向を示すことができたのです。
この2つの実験から、垂直方向を誤認する錯視には「ケーブルカーの動きと傾き」が関係していることがわかりました。
そのためチームは、正確な垂直方向がわからなくなる錯視は「視覚情報よりも、身体の前後の傾きと直線移動が同時に組み合わさったときに生じている可能性が高い」と結論しました。
つまり回りが傾いて見えるとか、単に身体が傾いているというだけでは垂直方向の誤認は起きず、身体が前後に傾いた状態で前進するなどの動きが組み合わさっているときに垂直方向がおかしく感じるようです。
「垂直」を正しく知覚できないと、姿勢や歩行の維持が困難になるなど、様々な日常生活に支障をきたし、場合によっては転倒につながる危険性もあります。
また、自動車の運転や飛行機の操縦でこのような錯視が起きれば、大惨事につながりかねません。
そうした意味で、「身体の前後の傾きと直線移動の組み合わせが垂直の知覚に影響するという新たな知見には、極めて重要な意味がある」と研究者は述べています。
あるいは、この種の知覚を逆手にとって利用できれば、テーマパークのアトラクションのようなエンタテインメント分野にも応用できるという。
錯視の研究は、私たちの生活の安全や質の向上を考える上でも重要なテーマなのです。