塩化物イオンは「甘味の扉」を開く鍵になっていた
私たちの味覚は、甘味・うま味・塩味・苦味・酸味の5つをベースにしています。
口の中には、これら5つの味を引き起こす物質を感知するセンサーとして「味覚受容体」が存在します。
たとえば、甘味受容体は糖を、塩味受容体はナトリウムイオンを感知して、それぞれ甘味と塩味を引き起こすのです。
また各受容体には、特定の味物質がピッタリ適合する”鍵穴”のようなポケットがあり、そこに”鍵”としての糖やナトリウムイオンなどが結合することで、決まった味を引き起こします。
ですから、糖を食べれば甘味受容体の扉が開いて「甘味」が発生し、塩味受容体の扉は開かないので、しょっぱさは感じないようになっているのです。
この味覚の感知システムはヒトから魚類に至るまで、あらゆる脊椎動物に共通しています。
その一方で、塩が引き起こす味覚には不思議な性質があることが知られていました。
味噌汁の濃度に近い0.8~1%程度の塩水では程よい塩味として感知されますが、この10〜20分の1の薄い塩水になると「甘く感じる」という現象が起きるのです。
これは60年前から科学的に知られていますが、そのメカニズムまでは分かっていません。
そこで研究チームは、味覚受容体における”鍵と鍵穴”の関係を詳しく調べることにしました。
その具体的な方法は、受容体タンパク質の形を原子レベルで解析することです。
チームは2017年に、味覚受容体として初めて、ヒトの持つ甘味やうま味の受容体と同じタイプの受容体として、メダカが持つ味覚受容体「T1r2a-T1r3」の味物質センサー領域の立体構造を明らかにしていました。
現在でも、この構造が甘味やうま味の受容体で構造が分かっている唯一の例となっています。
今回、この構造をさらに詳しく調べたところ、メダカの受容体が感知する味物質のアミノ酸が結合するポケットのすぐ側に「何か別の物質」が結合しているポケットが存在することが分かりました。
これを解析した結果、ポケットに結合しているのは「塩化物イオン」であることが判明したのです。
そして、この塩化物イオンの結合ポケットは、うま味受容体と甘味受容体の共通の構成部分である「T1r3」にあり、これはメダカだけでなく、私たちヒトや他の動物にも広く存在することが特定されました(下図の左を参照)。
チームは、これが実際に味覚として生体内で感知されているかどうかを検証すべく、マウスの味神経を使って実験。
すると、塩化物イオンはマウスの甘味受容体を介して、甘味神経応答を引き起こし、味覚として感知されることが確認されました。
塩化物イオンは確かに「甘味」を引き起こしていたのです。
実際、マウスはただの水と比べて、薄い塩化物イオンを溶かした水をより好み、甘味と同様の「好ましい味」として知覚していました。
なお、塩化物イオンが引き起こす甘味は、ショ糖などが起こす甘味と比較して弱いことも判明しています。
そこで食塩濃度が高くなると、ナトリウムイオンによって生じる塩味の方が塩化物イオンによる甘味を上回り、それを隠すようです。
よって、日頃摂取するような食塩の濃度では「塩の甘さ」に気付きにくくなっているのでしょう。
塩分の摂取は生命維持に必要な一方で、摂りすぎると健康を害してしまいます。
味覚は、ある食物を積極的に食べるか、あるいは避けて食べないようにするかを決める”門番”の役割を果たします。
たとえば、海水のような高濃度の塩水は、味覚が「おいしくない味」と認識するため、海水の摂取を避けることに役立っています。
反対に、薄い塩水は、体に必要なミネラルを補給するために「ほんのり甘い味」として感知されます。
研究者は「今回、薄い塩水において、塩化物イオンの味覚に対する作用がわかったことは、健康維持に重要な食塩の味覚感知を理解する上で、新たな知見を与えるものです」と述べました。