アステカ帝国の権勢の示威という側面もあった生贄システム
またアステカ文化における人身供犠は、宗教的な理由だけでなく、現実的な目的も持っていました。
アステカ帝国は「花戦争」として知られる戦争のシステムを導入しました。
これは生贄に捧げるため捕虜を手に入れるためだけにはじめられた戦争で、周囲の都市との対立を組織的に行ったのです。
この戦争を行う表向きの目的は、「太陽神への生贄を確保し、第5番目の太陽の時代が滅びないようにする」という宗教的な目的でした。
しかし実際は、アステカの花戦争には、さまざまな実用的な戦略があり、貢物の確保、周辺都市へのプレッシャーなどの側面もあったといいます。
アステカに服属する都市は、自身の産物を貢物として送る義務があり、これは祭礼や都市の生活、戦費に利用されていました。
アステカは戦争を物資の再分配のための重要な「生産活動」としても利用していたのです。
また先述したようにアステカは捕虜を人身供犠に使い、敵に恐怖を植え付け支配を容易にしました。
例えば、未だに服従していない首長や同盟に敵対し敗れた者の親族は、テノチティトランでの人身供犠の招待を受けました。
断ればそれを口実に戦争が起きますので、彼らは自身の親族が生贄として捧げられる光景を目撃させられたのです。
アステカの生贄の儀式は宗教的な意味合いだけでなく、帝国の権勢を示威するという意味合いも持っていました。
こうしたアステカ帝国の生贄儀式を利用した支配体制は、周辺地域のヘイトを溜めることになり、後にスペイン人が侵略してきた際、現地人が進んでスペイン人の味方をするという状況を生むことになります。
強大な勢力を誇ったアステカ帝国が、長い航海を経てやってきたスペイン人にあっさり征服されてしまった背景には、こうしたアステカ帝国の支配体制もあったと考えられています。
アステカ帝国、意外とエグいことしてたんやな