新たな用途が発覚!1年のカレンダーは「太陰暦」を採用していた?
復元の結果、機械の表示板は全部で3つあり、1つは前面に、2つは背面についていました。
※「アンティキティラ島の機械」の全体の復元像については下図をご参照ください。
背面の2つの表示板は比較的シンプルな造りで、おそらく「1年の各月の名前」と「日食の観測」のために使われたと見られています。
その一方で、前面の表示板は特に複雑な作りをしていました。
3つの針が見られ、1つは日付を、残り2つは月と太陽を表していたと考えられています。
さらに表示板には、リング型のメモリが同心円状にいくつか並んでおり、それぞれが1年のカレンダーや黄道十二星座の位置を示すものとして機能していました。
それにより例えば、月の針を動かすと、各日における月の位置がわかるというわけです。
またこれまでの研究で、1年のカレンダーを表すリングメモリは365日周期でまわる「古代エジプト式の太陽暦」が採用されていたと考えられてきました。
古代エジプトの太陽暦は、太陽の運行にもとづいた暦であり、1年が365日で構成され、それを12カ月に分けています。
各月は30日で構成されており、あとの5日分は年末に祝祭日として追加されていました。
太陽暦は太陽の運行にもとづくため、季節の変化や農業サイクルの把握に適した暦です。
ところが2020年になって、ある研究者チームがカレンダーのメモリをX線で調べてみると、リングの下に無数の穴が規則的な間隔で開けられていたことが判明しました。
リングは壊れていて不完全だったため、全部で何個の穴が空いているかわかりませんでしたが、その時の研究で、どうやら365個よりも354個に近い数だったことが示唆されたのです。
このことから、実際は古代エジプト式の太陽暦ではなく、「古代ギリシャ式の太陰暦(354日周期)」だった説が浮上しました。
そこでグラスゴー大学のチームは今回、新たな分析手法を用いて、カレンダーメモリに開けられた正確な穴の数を調査。
それぞれの穴の間隔を半径77.1mmのカレンダーメモリと照らし合わせた結果、穴の数は明らかに365個ではなく、354か355個並んでいることが判明したのです。
この結果からアンティキティラ島の機械のカレンダーは、古代ギリシャ式の太陰暦を使っていた説が有力となりました。
古代ギリシャの太陰暦は、月の満ち欠けにもとづいた暦です。
1年は354日周期で、太陽暦よりも約11日短くなっています。
夜空をよく眺めている人なら実感があると思いますが、1月の間に2回満月があったり、現代の私たちの使う暦と月の周期にはズレがあります。そのため月の満ち欠けに基づいた太陰暦は、実際の季節などと少しずつズレていってしまいます。
そこで1月の周期や季節を一致させるために太陰暦では定期的にうるう月を追加して、暦を調節する必要がありました。
そのせいで太陽暦よりもズレが生じやすく、扱いづらい面がありましたが、月の満ち欠けにもとづくため、宗教行事や伝統的な月の観測に適していたのです。
つまり、太陰暦のカレンダーを採用していたとなると、アンティキティラ島の機械は「宗教暦な儀式」や「祝祭日」を把握するために用いられていたのかもしれません。
しかし、この結果もまだ断定的なものではなく、アンティキティラ島の機械については仕組みや用途の点で不明な箇所がたくさん残されています。
特に最も大きな疑問は「誰がこの機械を発明したのか」ということです。
高度な天文学知識と、当時の1000年先を行くと技術力を持っていたのですから、群を抜いた天才であることに違いはありません。
その天才の正体が明らかになる日は、果たしてやってくるのでしょうか。
まだ解明されていなかったことがあったんですね!興味深かったです。でもこれほどのものを急にギリシャ人が作れたとは私は思えません。ペルシャ帝国から取り入れたものと思います。ペルシャは古代バビロニアからその知識を得たのでは?サロス周期は古代バビロニアの粘土板に記されていたそうですから。こんな複雑な歯車を作るのも職人を何代にもわたって養わないと駄目でしょう。フェニキア人に字を教えてもらうまで文盲だったギリシャ人には本体ケースや文字盤くらいしか作れなかったと思います。当時、機構を理解して使えたのはアルキメデスくらいだったとは思いますが。