脳内でガンマ波を発生させる薬「DDL‐920」
ガンマ波の自給自足を達成するために、研究者たちは「パルブアルブミン陽性介在ニューロン」と呼ばれる特殊なニューロンに注目しました。
このニューロンは、脳内でガンマ波を生成する役割を持っていることが知られています。
前述のとおり、アルツハイマー病患者ではガンマ波が大幅に減少し、その結果、認知や記憶に悪影響が及んでいます。
研究者たちはこのニューロンを強制的に活性化させる化合物の探索に取り組みました。
特に注目されたのが、パルブアルブミン陽性介在ニューロン表面に存在する「γ-アミノ酪酸A受容体」(GABA_A受容体)です。
この受容体は、パルブアルブミン陽性介在ニューロンがガンマ波を過剰に発生させないようブレーキ役として機能しています。
健康な人では、このブレーキ機能は適切なガンマ波の生成を助けますが、ガンマ波の発生能力が低下しているアルツハイマー病患者には、ブレーキではなくアクセルが必要です。
そのため、研究者たちはこの受容体のブレーキ機能を解除できる化学物質を探索しました。
その結果、「DDL‐920」と名付けられた小分子が、GABA_A受容体を遮断し、ガンマ波放出のリミッターを解除することが判明しました。
次に、研究者たちは実際の有効性を確認するため、アルツハイマー病モデルのマウスにDDL‐920を経口投与しました。
その結果、投与後4.5時間にわたり、アルツハイマー病マウスの脳内でガンマ波が有意に増加していることが確認されます。
しかし、この段階では、DDL‐920が失われた記憶の回復に役立つかどうかは不明です。
人間ならば、過去の記憶を覚えているかをインタビューで確かめることもできるでしょうが、マウスでは不可能です。
そこで研究者たちは次善の策として、マウスに迷路を攻略する訓練を繰り返し行わせました。
迷路を解くには道筋に関する「記憶」が必要であり、迷路攻略時間を調べることで、マウスの記憶が保持されているかを確認できるからです。
実験にあたっては、アルツハイマー病のマウスが用意され、2週間に渡り1日2回、DDL‐920を投与されたグループと、ただの生理食塩水を投与されたグループが比較されました。
するとDDL‐920を投与されたアルツハイマー病マウスは記憶を思い出し、迷路攻略時間が健康なマウスと同じレベルにまで回復していることが明らかになりました。
この結果は、DDL‐920にはアルツハイマー病によって失われた記憶を回復させる効果があることを示しています。
アルツハイマー病患者が記憶を思い出せない理由には、記憶自体がニューロンとともに消失した場合と、記憶は残っているものの思い出せなくなっている場合があります。
コンピューターで例えるならば、前者はハードディスクそのものが壊れてしまった場合であり、後者はハードディスクは無事なもののUSBの差込口のようなデータを抽出する場所が壊れている状態だと言えます。
これまでの研究では、アルツハイマー病患者が特定のきっかけで記憶を思い出せることが示されており、多くのケースで記憶は残っているが想起できないだけである可能性が指摘されています。
DDL‐920の投与によって迷路の突破能力が回復したことは、アルツハイマー病マウスの脳内でも記憶が残っていたが、病気によって想起できなくなっていたことを示唆しています。
研究者たちは、同様の効果が人間でも再現されるならば、DDL‐920によってアルツハイマー病患者の記憶を回復できる可能性があると述べています。
DDL‐920を投与されたマウスたちでは目立った副作用がみられないことも示されており、近い将来、アルツハイマー病患者用の記憶回復薬が承認されるかもしれません。