そもそも虚数時間って何?

「虚数時間」と聞くと、まるで実在しないおとぎ話のように響きますが、じつは物理学の数式の裏側ではよく顔を出す概念です。
通常の時間軸をまっすぐ進むかわりに、数学的にはその軸を九十度ひねって“虚数方向”に回転させると、波を表す複雑な振動方程式が静かな指数関数に変わり、計算が一気に楽になります。
スティーブン・ホーキング博士がビッグバンの特異点をなだらかにするために導入したのもこの方法です。
ホーキング博士は、宇宙が生まれた瞬間に存在するとされる“無限に小さく無限に熱い点(特異点)”をそのまま扱うと数式が暴走してしまうため、時刻をそっと九十度回して「実時間」を「虚数時間」に置き換えるという工夫をしました。
こうすると、尖った一点だったビッグバンが雪玉の頂上のように丸くなり、無限大が姿を消して数式が穏やかに動くようになります
ただし、その「ひねった先の時間」は腕時計では測れないので、長らく“計算専用の裏舞台”と見なされてきました。
この“腕時計に映らない時間”が、実は身近な電磁波の世界にもこっそり入り込んでいる――そう示唆するのが虚数時間の「時間遅れ(タイムディレイ)」という考え方です。
時間遅れ(タイムディレイ)を簡単に言えば、波がトンネルの中でどれだけ足踏みしてから出てくるかを示す“寄り道時間”です。
光やマイクロ波は真空では一直線に進みますが、ガラスや金属のような物質に入ると一部のエネルギーを吸収されたり反射されたりして、出口に到達するまでわずかに遅れます。
この遅れを数式できちんと定義したのがウィグナーとスミスです。
2人は遅れ時間をギリシャ文字の τ(タウ) と名づけ、「出口が入口よりあとに出てくれば プラス、逆に山(ピーク)が先に顔を出したように見えたらマイナス」というルールにしました。
マイナスになると「光より速く抜けたの?」と驚きますが、じつはそうではありません。
後ろから来た波どうしがちょうど重なり合うせいで、いちばん高い山だけが少し前へずれて見える錯覚にすぎないのです。
ところが理論を突き詰めると、この τ には実数成分だけでなく虚数成分も隠れている場合があるとわかりました。
2016年に浅野氏らが発表したモデルはその代表例で、物質の中を通る光やマイクロ波の波形を詳細にシミュレーションしたところ、計算の中にしか存在しないはずだった虚数時間が“目に見える痕跡”を残す可能性があることがわかったのです。
具体的には、波が物質内で受ける遅れを表す量 τ(タウ)を詳しく調べてみると、私たちがストップウォッチで測れる“実際の遅れ”に加えて、数式の中にもうひとつ“目には見えない遅れ”がひそんでいることがわかりました。
これは時計には映らないので虚数の遅れと呼ばれますが、ただの計算上のツールではありません。
数式によれば、この隠れた遅れがあると、波のエネルギーが集まる中心周波数がほんのわずかに高い側へ押し上げられたり、逆に低い側へ引き下げられたりする――いわば“色合い”がかすかに変わる現象が起こるはずだと予測できたのです。
ただ当時は実験的な検証が難しく、またそもそも実際に観測できるとは考えられていませんでした。
虚数は虚数であり、実数の世界に顔を出すことはないとする考えもありました。
しかし理論物理学者の間では、虚数時間も何らかの形で波動現象に影響を及ぼしている可能性が指摘されていました。
そこで米メリーランド大学の研究チーム(イザベラ・ジョバネリ氏、スティーブン・アンラッジ氏ら)は、この虚数時間の遅れの予言を実験で検証することに挑みました。
彼らの目的は、虚数時間の遅れが現実の波動伝搬に測定可能な効果を及ぼすかを明らかにすることでした。
もしこれが確認できれば、「虚数時間」という抽象的な概念にも物理的実在としての意味があることになり、世紀の大発見となります。