忘れた記憶が「勘」となって私たちを助けている

今回の研究結果は、「忘れる」という現象を新しい視点で捉え直すものです。
人はある出来事を忘れてしまっても、その記憶の痕跡は脳から完全に消去されるわけではありません。
むしろ見えない形で脳内ネットワークに潜み続け、場合によっては私たちの行動に無意識的に影響を与え続けていることが示されました。
今回の研究は、マウスで得られていた知見をヒトでも高精度に示した例のひとつです。特に7テスラという最新鋭のMRI技術を用い、高精細な脳活動パターンを捉えることで、海馬に「忘却エングラム」が残っている証拠が得られた点は画期的でした。
海馬に残る痕跡は、意識的に思い出す役割だけではなく、無意識の行動や選択と関係している可能性が高いことも示唆されています。
ではなぜ脳は記憶を完全に削除せず痕跡を残すのでしょうか?
考えられる理由の一つは、再び似た状況に出会ったとき、素早く対応するためではないかと研究者らは考察しています。
たとえ今は不要でも、経験の痕跡が残ることで再学習するより簡単に直感で適応可能だからです。今回も、忘れた記憶が直感的な選択の向上として行動に表れていました。
また、記憶を意識できるかどうかには海馬から新皮質への移行プロセスの違いが関係しています。
覚えていた記憶では新皮質へ展開が進んでいましたが、忘れた記憶ではそれがなく、海馬にとどまっているため意識から外れていると考えられます。
「忘却とは記憶が消えるのではなく、アクセスが一時停止された休眠状態」であり、脳は不要な情報を「完全に捨てる」のではなく、「一時停止フォルダ」に保管しているとも言えます。
勘の正解率が高くなる時に海馬が特徴的な活性化をするという結果は、これを脳科学的に示しています。
さらに、将来的な応用面でも興味深い示唆があります。
たとえば認知症や健忘症の患者では、記憶が失われたように見えても、痕跡そのものは残っている可能性があります。
もしそれを再活性化できれば、失われた記憶を取り戻す助けになるかもしれません。
研究グループは今後、磁気や電気による非侵襲的な脳刺激によって、海馬内に潜む無意識記憶の痕跡を意識上に引き上げられるかどうか、検証を検討しています。
また、同じグループは睡眠中に学習させた内容を目覚め後に思い出す実験や、健忘症で残った記憶能力を高める介入も模索しており、今回の「忘却エングラム」の発見は記憶障害の新たな診断・治療法開発に道を開く基盤となる可能性があります。
記憶は本当に不思議で奥深いものです。一度は忘れたと思った体験も、脳には見えない形で痕跡が生き続けていて、気づかぬうちに私たちの意思決定や行動に影響しているのかもしれません。
脳は意識に不要な情報を隠し持ちながら、必要なときに備えて環境へ適応する優しい戦略をとっている――そんな気持ちになりますね。