安全性を子ども世代まで追いかけた

今回コーネル大学のStephanie Tanis氏とLeah Simon氏ら(共同筆頭著者)のチームが挑んだのは、まさにこの「本当に元に戻るのか」という問いでした。
研究チームはオスのマウスにJQ1を3週間毎日注射し、そのあと投与をやめました。
そして投与直後、6週間後、30週間後、さらに生まれてきた子ども(F1世代)まで、執拗に追跡しました。
検査の精度もすさまじいものでした。
6万9000個もの細胞を1つずつ調べて、それぞれの遺伝子がどう働いているかを記録する「単一細胞RNA解析」という最先端の技術を駆使。
さらに染色体を顕微鏡で1本ずつ観察し、精子の形を数え、交配させて子どもを産ませ、子どもの精巣まで解剖しました。
結果は、期待をさらに上回るものでした。
投与中は確かに精子数が激減し、奇形精子の割合も増え、精子産生がほぼ停止した状態になっていました。
ところが投与を終えて6週間後には、精巣の見た目も細胞の構成も元通り。
30週間後には、遺伝子の働き方までほぼ完全に正常化していたのです。
研究チームは独自に「ヒーリング指標」と呼ぶ数値を考案しました。
これは投与で変化していた遺伝子のうち、何割が元の状態に戻ったかを示すものです。
測定の結果、精子幹細胞で98.5%、精母細胞(染色体を組み換える段階の細胞)で73.4%、精子細胞で95.4%、成熟した精子で95.8%の遺伝子が元通りに戻っていました。
精母細胞の回復がやや遅れるのは、あの「パキテン転写バースト」——工場の大号令を再び全員で息を合わせるのに、リハーサル期間が必要だからと考えられています。
そしてもっとも気がかりだった点——子どもに染色体異常は出るのか。
結果は「異常なし」でした。
子供世代のオスたちの精巣、染色体、減数分裂のすべてが、普通のマウスとまったく見分けがつかなかったのです。
交配試験でも、最初の1回こそ妊娠までに少し時間がかかりましたが、2回目以降は正常な子だくさんに戻りました。
2回目以降の平均的な1回あたりの子どもの数は5〜6匹と、薬を使っていないマウスとまったく同じでした。
もっとも、この研究はあくまでマウスの実験で、人間に使える薬がすでにできあがったわけではありません。
過去の研究ではJQ1は腎臓や肝臓にごく軽い一時的な影響が出ることも確認されており、人に使うには改良も必要でしょう。
生殖能力そのものは完全に戻るので実用上の支障はなさそうですが、長期間にわたって服用を続けた場合に何が起きるかは、まだ分かっていません。
それでも、この研究の意義は大きいと言えます。
「完全に元に戻る」「幹細胞を壊さない」「染色体異常を起こさない」「子どもにも影響しない」——男性避妊薬に求められる安全性の条件を、これだけ具体的な数値と世代を超えた証拠で示した研究は初めてだからです。
興味深いことに、この研究の資金源はゲイツ財団(旧ビル&メリンダ・ゲイツ財団)でした。
意図しない妊娠を減らすことは、地球規模の健康問題として最優先の課題のひとつと位置づけられています。
財団がこの分野に本格的に資金を投じている事実そのものが、男性避妊薬への社会的期待の大きさを物語っています。
長らく停滞していた男性避妊薬の研究に、ようやくはっきりした道筋が見えてきました。
BRDTをより精密に狙える改良版の薬が完成する日、男性が自分の意思で、一時的に、そして完全に戻せる避妊を選べる未来がやってくるのかもしれません。


























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