量子世界を虚数無しで描くことに成功

研究者たちはまず発想をこう切り替えました。
「問題なのは「実数では書けない」ことではなく、「前提のルールが実数版には厳しすぎた」ことなのではないか?」
彼らは、数学の合体ルールを天下り式に押しつけるのをやめ、代わりに物理的に当たり前の原理から出発しました。
その原理は、拍子抜けするほど素朴です。
離れた場所にAとBがあるとき、Aだけをいじった操作が、遠くのBを直接書きかえてしまってはいけない――というものです。
もちろんこれは、AとBのあいだの量子もつれ(離れていても、示し合わせたように振る舞う、あの不思議な結びつき)が消える、という意味ではありません。
二つを並べて測れば、たがいに結びついた結果は、これまでどおりちゃんと現れます。
研究チームは、状態の表し方も、測定のしかたも、確率の出し方も、これまでの量子力学のまま変えませんでした。
そこに、この素朴な原理をひとつだけ新しく付け加えたのです。
そうして、実数だけで複数の量子を組み合わせる仕組みを、数式の上で組み上げました。
鍵となったのが、それぞれの量子に小さな「札(ふだ)」を持たせる工夫です。
といっても、この札は手で触れたり直接測ったりできる実在の部品ではありません。
虚数が抱えていた情報を、実数だけで書き留めておくための、いわば計算用のメモ書きです。
しかも、このメモだけをこっそりのぞき見るような測定は、はじめから許されていません。
複素数の「5 + 3i」を実数化するときには、横方向の「5」と縦方向の「3」を別々に記録する必要があります。
研究チームは、各量子に二つの目盛りを持つ札を取り付け、片方に実数部分、もう片方に虚数部分を書き込むようにしました。
虚数 i を掛けると矢印が90度回転する——その操作も、札の二つの数値を入れ替えて符号を反転させることで、虚数の文字を一切使わずに再現できます。
さらに研究者たちは「同じ物理状態を表す札の組み合わせは、共同で管理している一冊の帳簿のように最初から同じものとして扱う」ことにしました。
数学の言葉では、これを「商空間(しょうくうかん)」と呼びます。
意味の同じ書き方を一つにまとめてしまう操作です。
たとえるなら、東京の「ある瞬間」を記録するとき、「日本時間で15時」と書いても、「世界共通の基準時刻でいえば6時」と書いても、指している瞬間は同じです。
書き方は違うけれど、意味は一つです。
研究チームは量子状態についても、このように同じ物理を表す異なる表記をグループとして束ね、一つの状態として扱いました。
こうして、複素数版の量子力学と実数版の量子力学のあいだに、完全な一対一の翻訳辞書が完成しました。
複素数版にある状態は、実数版にも対応する状態があります。
複素数版の測定操作には、実数版で対応する操作があります。
複素数版から実数版へ訳すことも、その逆もできます。
そして二つの版は、標準的な量子力学が扱う実験では完全に同じ確率を予測します。
通常の量子力学が「30%」と答える測定があれば、実数版も「30%」と答えます。
かつて実数版を葬ったはずの実験すら、新しい実数版はちゃんと再現できるのです。
標準的な量子力学で虚数 i が担っていた「回転」や「位相」の仕事は、実数版ではフラグの回転や商空間のグループ化へと引っ越しています。
言葉や文法は違っていても、記述される物理の中身はすべて一つずつ対応している——まさに、同じ小説の日本語版と英語版のような関係です。
なお今回の論文はその成果を評価され、Physical Review Letters誌の「編集部推薦論文」に選ばれています。




























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