修道院の創建者だった王妃アリゼンダ
アリゼンダ・デ・ムンカーダは、1292年に有力貴族ムンカーダ家に生まれました。
1322年、彼女はアラゴン王ハイメ2世と結婚し、アラゴン王妃となります。
ハイメ2世は「公正王」とも呼ばれ、現在のスペイン東部にあたる地域を治めた王でした。
アリゼンダとの結婚時、ハイメ2世はすでに前妻との間に10人の子どもをもうけており、アリゼンダは王妃であると同時に、王家の複雑な家族関係の中に入っていくことになりました。
しかし、彼女の名が強く記憶されている理由は、王妃だったことだけではありません。
1326年、アリゼンダはバルセロナに王立サンタ・マリア・デ・ペドラルベス修道院を創建したのです。

この修道院は、クララ会の女子修道共同体のための施設であり、王妃の信仰、政治的影響力、そして女性による庇護の象徴でもありました。
翌1327年にハイメ2世が亡くなると、アリゼンダは修道院の近くに建てた小さな宮殿に移り住みます。
彼女は修道女になったわけではありませんが、宮廷政治から距離を置き、修道院と密接に関わりながら晩年を過ごしました。
1364年に亡くなるまで、彼女はこの修道院のそばで生きたのです。
今回の調査では、そのアリゼンダの墓が初めて総合的に研究されました。
研究者たちが墓を開くと、教会と回廊の間にある空間の一角から、骨を納めた中世の木箱が見つかりました。
この墓の構造は、彼女の二重の立場をよく表しています。
教会側に近い位置では王妃としての権威を示し、回廊側に近い位置では祈りと悔悛(かいしゅん)の人としての姿を示していると考えられています。
つまり、アリゼンダの墓そのものが、彼女を「王妃」としても「信仰に生きた女性」としても記憶させる装置になっていた可能性があるのです。
遺骨の分析では、遺骸は約70歳の女性のものとされ、歴史書に記されたアリゼンダの死亡年齢におおむね一致していました。
骨には加齢に伴う変形性関節症の痕跡も確認されています。
また、彼女は質素な衣服で埋葬されていたとみられますが、墓の中からは金属糸を用いた絹織物の断片も見つかりました。
質素さと高貴さが同じ墓の中に残されていたことは、王妃でありながら修道院に寄り添って生きた彼女の立場を象徴しているようです。
さらに、ローズマリーやギンバイカなどの芳香植物も確認されており、葬送儀礼に植物が用いられていた可能性も示されています。



















































