哲学における「無」とは?
「無」の問題は何も物理学だけが独占しているものではありません。アメリカの哲学者であるジム・ホルト氏は、純粋に何もない状態というのは人間にとって理解不能なものであるとして、そもそも「無とは何か」という問い自体に疑問を持ちます。例えば、哲学には「何かあるものXの存在を説明したいとき、X以外の何かを用いなければならない」という論理的命題があります。時計がどのようなものかを説明するには、それを構成する針であったり、文字盤を使う必要があります。しかし、「あるものすべて(宇宙)」を説明したいとき、それ以外のものは文字通り存在しないのですから説明のしようがありません。
つまり、存在するものは宇宙も人も動物も何もかも含めてただ存在し、それが生まれでてくる「無」という母胎はないのです。このように考えると、宇宙が無から誕生したという「ビッグバン仮説」もおかしなことになります。なぜなら、宇宙が無から生まれるならば、結局宇宙が誕生する以前にも何かしらのものが存在したという何よりの証拠になってしまうからです。0から1は生まれようがありません。そう考えると、「無」こそ本当にないものなのでしょう。
しかし、ホルト氏は「無」の概念について否定的ではありません。彼の説明によれば、「無」とは私たちの周りに存在するものを考えるための思考的土台であり、そこからまったく新しい発見が現れ出てくるのだそうです。科学的な発見の成果は、私たちがまだ見ぬ未知の可能性を探求しつづけることに起因しています。つまり、哲学的観点からすると「無」は何もないというよりもむしろ、何か新しいものを生み出すための確かな概念的存在なのでしょう。
日常の中であらゆる物に囲まれて生きる私たちにとって、「何もない」事態を思い描くことは究めて困難なことです。しかし新たなアイデアは、いまだ存在しない未知の可能性から生まれます。そういう意味で、「無」は私たちの探求の源泉として存在しているのでしょう。
https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/23837
via:motherboard. / translated & text by くらのすけ