真空から『粒子がポンと現れる』という不思議な理論

「真空」と聞くと、多くの人は何も存在しない、完全に空っぽの空間をイメージするかもしれません。
確かに、普通のイメージでは真空とは物質がまったく存在しない空間のことです。
しかし、量子論(原子や電子など、極めて小さな世界を扱う物理学)の世界では、そのイメージは大きく覆されてしまいます。
実は量子論でいう「真空」は、まったく静かな無ではなく、目に見えない小さなエネルギーのゆらぎ(ランダムな揺れ動き)が絶え間なく生じている場所なのです。
このゆらぎをイメージするなら、静かな海面が実はとても小さな波で絶えず揺らいでいるようなものだと考えるとよいでしょう。
そしてこの微小なゆらぎからは、一瞬だけ粒子と反粒子というペアが生まれては消えるという、不思議な現象が繰り返されています。
これらの粒子ペアは「仮想粒子」と呼ばれ、ふだんはあまりに寿命が短いために、本物の粒子になることはありません。
まるで、生まれた瞬間にすぐに消えてしまう幽霊のような存在なのです。
ところが、もしこの真空に途方もなく強い電場(電気の力を生む場)をかけることができれば、仮想粒子の運命が劇的に変わります。
強力な電場のエネルギーによって、仮想粒子のペアが「本物の粒子」に昇格し、真空の中から電子と陽電子(電子の反対の性質を持つ粒子)のペアが実際に現れるというのです。
この魔法のような現象が「シュウィンガー効果」と呼ばれ、1951年に理論物理学者ジュリアン・シュウィンガーによって予言されました。
しかし、この理論が予言する粒子の生成を実際に実験室で観測するには、私たちが現在持つ技術ではまったく届かないほど、非常に強力な電場が必要です。
そのため、このシュウィンガー効果は長らく理論上の予言にとどまり、「真空から有を生み出す」という現象は夢のような話として扱われてきました。
ここで、カナダのブリティッシュコロンビア大学(UBC)の研究チームは、まったく違う発想でこの問題にアプローチしました。
彼らが着目したのは、「アナログ実験」という方法です。
コラム:アナログ実験とは?
アナログ実験とは、本物の現象をそのまま再現するのが困難な場合に、別のもっと扱いやすい物理系を使ってその現象を“模倣”し、その本質を理解しようとする実験手法です。その面白い例のひとつが、宇宙空間にあるブラックホールやホワイトホールを身近な水の流れで模倣してしまう実験です。例えば蛇口から水を出してシンクの底に水が落ちると、水は四方八方に薄く広がり、あるところで小さな円い「輪っか」を作ります。じつは、この何気ない「水の輪っか」が、宇宙の理論で知られるホワイトホールという天体とよく似た性質を示しているのです。
Credit:Experimental demonstration of the supersonic-subsonic bifurcation in the circular jump: A hydrodynamic white hole もちろん、シンクの水流が本当にホワイトホールそのものというわけではありません。でも、重要なのは、全く違う規模や物質であっても、その背後で働く「物理法則」は共通していることがある、という点です。
今回の研究では、直接真空に超強力な電場をかける代わりに、「超流動」という特殊な液体状態を使って真空と電場を模倣することにしました。
超流動とは、液体の粘性(ネバネバした摩擦)が完全になくなり、まったく抵抗を受けずに流れる状態のことです。
ヘリウムという元素を絶対零度(マイナス273℃)近くまで冷やすと、この超流動の状態になります。
研究者たちは、この超流動のヘリウムを非常に薄い膜状にし、これを「摩擦のない真空」の代わりに使いました。
さらにこの膜の中の流れを真空にかける電場の代わりに見立てました。
こうして真空と強力な電場という、実験が非常に難しい現象を扱いやすい超流動ヘリウム薄膜の系で置き換えることで、真空で起こる粒子ペア生成(シュウィンガー効果に相当する現象)を実際に観察できる可能性があることを示したのです。
つまり、研究者たちは実際の真空そのものを使わずに、ヘリウム薄膜を使った理論的なアナログモデルで「真空から有が生まれる」現象の謎を解き明かす道を切り開いたのです。