なぜ「体細胞変異だけが残る世界」を計算したのか
ただ老化は、1つの原因だけで進む現象ではありません。細胞内でエネルギーを作るミトコンドリアの機能低下、老化細胞の蓄積、テロメアの短縮、幹細胞の働きの衰えなど、複数の変化が互いに影響しています。
しかし現代の医学研究では、こうした異常な細胞を取り除いたり、低下した機能を回復させたりすることで、若い状態へ近づける老化治療の方法が色々提案されています。
ただそんな老化要因の中で、体細胞変異(somatic mutation)という現象は、対処が難しいと考えられています。
体細胞変異とは、細胞に後天的に生じるDNA配列の変化のことで、細胞ごとに異なる変異が蓄積していきます。そのため、この問題を解決するには、それぞれの細胞の変異箇所を特定して修正しなければなりませんが、何兆もある細胞にそのような処置をするのは不可能です。
研究チームは、変異を多く持つ細胞の除去や全ゲノム編集、細胞の置き換えなどの案に触れていますが、体細胞変異に対して全身へ安全に適用できる医療技術は当分実現できないと考えています。
つまり、将来ほかの老化要因を抑えられるようになっても、体細胞変異だけが未解決のまま残る可能性があるのです。
そこで研究チームは、もし様々な老化要因が全て解決したとして、体細胞変異という1つの要因だけ残った場合、人間の寿命がどこまで保つのかを計算することにしたのです。
研究チームはまず、老化による死亡率は上がらず、事故や感染症などの死亡リスクだけが残る基準モデルを作りました。
ここでは、スイスの統計データを用いて加齢性疾患がまだ比較的少ない30歳時点の死亡率を基準に、この死亡率が永遠に維持される世界を仮定しています。
その上で、過去の単一細胞全ゲノム解析(single-cell whole-genome sequencing)のデータから、脳のニューロン、心臓の心筋細胞、肝臓の肝細胞と肝前駆細胞、気道を修復する気管支基底細胞で、それぞれ1年にどれほど変異が増えるかを推定し、その変異で細胞が死ぬ確率、各臓器に含まれる細胞数、どこまで細胞が減ると臓器機能を維持できなくなるかを組み合わせ、体細胞変異だけ残った場合に人間の寿命がどうなるかを推定したのです。
なお肝臓と気道については、細胞分裂や幹細胞による補充能力も計算に含めています。
その結果、細胞を補充しにくい脳と心臓では、体細胞変異による細胞損失が長期間にわたって積み上がってしまい、寿命を制限する要因になっていたのです。
脳だけを寿命制限要因として背景死亡率と組み合わせると、寿命中央値は194年となり、10万人に1人が生き残る年齢として定義した最大寿命は557年となりました。
心臓だけの場合は、寿命中央値が208年、最大寿命が868年でした。
気管支基底細胞では、細胞集団が機能限界へ達するまでの中央値が約4423年となり、臓器単独の生存モデルでは中央値4359年、最大7617年と推定されました。
これに対して、肝臓では大きく異なる結果が出ました。
肝細胞自身の分裂能力だけを使ったモデルでも、肝細胞集団が臓器の機能限界へ達するまでの中央値は約3万7664年でした。
肝前駆細胞による補充まで加えると、10万年間のシミュレーション中に機能限界へ達した肝臓はありませんでした。
これだけ聞くと、肝臓すごすぎと思ってしまいますが、これは変異によって肝細胞が失われても、残った細胞が分裂して補うため、肝臓全体の機能細胞数が長期間維持されたという話であり、実際肝臓がこれほど長期間機能するという話とは異なります。
この点は後ほど詳しく説明します。
最後に研究チームは、脳、心臓、肝臓、気道を、どれか1つが機能を失えば個体も死亡するシステムとして統合しました。
この場合、統合したモデルでは、寿命中央値は最終的に156年、最大寿命は470年となりました。
ただし、現実の臓器は完全に独立して変化するとは限りません。
そこで、すべての臓器が同じ人の中でほぼ足並みをそろえて変化する極端な条件と、ある臓器が保たれる人ほど別の臓器が悪化するような反対の極端な条件も計算しています。
その場合、前者では寿命中央値が194年、最大寿命が557年となり、後者では中央値146年、最大210年となっています。
いずれにせよ、今回の研究のモデルでは、体細胞変異の問題が解決しなかった場合、老化要因を全て解決しても人間の寿命は中央値146~194年、最大寿命210~557年というレンジの中に収まる可能性が示されたのです。

































