死後も大西洋を航海したコロンブスの遺骨
コロンブスは、イタリアのジェノヴァ出身とされ、のちにスペイン王室のフェルナンド2世とイザベラ1世の後援で、1492年から1504年の間に4度の航海を指揮しました。
最初の航海は、1492年8月3日、インドを目指して大西洋に出帆しています。
なぜインドを目指して大西洋を西に向かったのかというと、当時想定されていた世界のサイズは現在より小さかったからです。
コロンブスは西に向かう方がアフリカ南端を回るより楽にインドへ行けると考えたのです。
そして10月11日の日付が変わろうとする真夜中に、船の乗組員が陸地を発見しました。
翌朝、コロンブスはこの島に上陸し、ここを「サン・サルバドル島」と命名します。
彼は最初ここがインドだと思っていたようですが、実際そこは彼の目指したインドではなく、米フロリダ半島の南方の海に浮かぶバハマ諸島の一つでした。
インドと何の関係もないこの地域が、現在の地図で西インド諸島と呼ばれるのは、このときのコロンブスの勘違いが理由です。
1493年9月、ここが新大陸だったと判明した後の2度目の航海は完全な植民目的で始まり、コロンブス率いるスペイン軍は、アメリカ先住民に対して徹底的な殺戮行為を行いました。
さらに、スペイン人の持ち込んだ疫病は、殺戮よりも凄まじい勢いで広がり、膨大な数の先住民がなすすべなく命を落としています。
このコロンブスの襲撃戦略は、その後10年間にわたり、スペイン人の征服者が模範とした殺戮モデルとなりました。
そして、4度目の航海を終えた1504年11月、コロンブスは病にかかり、そのまま1506年5月20日に、スペイン北部バリャドリッドで死去しています。
コロンブスの「最初の」埋葬地はどこ?
さて、話はここからです。
コロンブスが亡くなったあと、遺骨がバリャドリッドに埋葬されたことは以前から知られていましたが、その正確な場所まではわかっていませんでした。
最初の埋葬から3年後、彼の遺骨はスペイン南部の都市セビリアにある家族の霊廟に移転します。
それから1544年、コロンブスが生前に残した指示によって、今度はセビリアから遠く、海を渡って中南米のドミニカ共和国の首都サントドミンゴに移転。
ついで1795年、彼の遺骨はハバナに移されたあと、再び大西洋を超えて輸送され、1898年に現在のセビリアに戻されました。
2005年に、グラナダ大学(University of Granada)を中心とする研究チームが、セビリアの墓から採取した骨片のDNAサンプルをもとに、そこに保管された遺骨がコロンブスのものであることを確認しています。
そして今回、マドリード海軍博物館の研究チームは、コロンブスの最初の埋葬地が、バリャドリッドにかつて存在したサンフランシスコ修道院(San Francisco convent)である、と断定しました。
この修道院は現在はすでに存在せず、代わりに「マヨール広場(Plaza Mayor)」と呼ばれる、赤いアーケードに囲まれた歩行者天国のような広場となっています。
研究主任のマルシアル・カストロ(Marcial Castro)氏によると、この結論は「詳細な歴史的調査と地中レーダーによる探索」で判断されたとのこと。
カストロ氏は、現在のセビリアの埋葬地から採取した金や鉛、レンガのサンプルを調べた結果、バリャドリッドの埋葬地のものと一致が見られた、と述べています。
また、地中レーダーからかつて存在した礼拝堂の大きさを割り出しており、3分の2はマヨール広場の路上に、残り3分の1が現在銀行がある場所の下にあったと見られています。
研究チームは現在、コロンブスの遺骨が納められていたバリャドリッドの礼拝堂の寸法を3Dで再現しているとのことです。
一方で、現在のコロンブスの埋葬地についても、ちょっとした議論が起きています。
ドミニカ共和国は、コロンブスの遺骨がいまだサントドミンゴに存在すると主張しており、この点について決着が付いていません。
これについて、2005年にDNA調査をしたグラナダの研究チームは、セビリアの遺骨がコロンブスのものであることは確かだが、その一部が分かれて、サントドミンゴにも残っている可能性があるとしています。
しかし歴史上の重要人物とはいえ、コロンブスが死後これだけ何度も埋葬地を変更されているというのは興味深い話しです。
コロコロと埋葬地が変わったコロンブスの最初のお墓を見つけるという研究は、まるで映画「インディー・ジョーンズ」の一幕のようですね。