ヒトだけが持つ「知恵の実」遺伝子
人間とチンパンジーの遺伝子は99%が同じものだとはよく言われていますが、人間の脳はチンパンジーの3倍以上も大きく、構造も複雑です。
そのため、かつてドイツと日本の研究者たちは、人間とサルを隔てる因子を残りの1%の中から洗い出し、その中の1つ「ARHGAP11B」を試しにサルの受精卵に組み込む動物実験を行いました。
ARHGAP11Bはサルに存在しないだけでなく、地球上においてヒトだけが持つヒト固有の遺伝子です。
すると驚いたことに、サル胎児の大脳新皮質の厚さが2倍になり、人間と同じような脳のシワが形成され、さらには脳細胞数も劇的に増加し、完全なヒト化をはじめました。
しかし、このままでは倫理的な大問題になると考えた研究者たちの手により中絶手術が行われ、ヒト化した脳を持つサルの赤ちゃんは産まれることはありませんでした。
この一連の研究は2020年に『Science』に掲載され、サル胎児の脳をヒト化させたARHGAP11Bは「知恵の実」遺伝子として世界に知られるようになりました。
しかし「知恵の実」遺伝子が発見されたものの、人間に最も近い種であるチンパンジーを利用する研究は進んでいませんでした。
原因は倫理問題でした。
ヨーロッパでは現在、チンパンジーなどの大型霊長類を用いた実験が規制されており、特別な問題でも起きない限り、実験が許可されることはありません。
そこで今回、マックス・プランク研究所の研究者たちは代りに、チンパンジー細胞を人工培養して作られたチンパンジー脳オルガノイドを実験材料にすることにしました。
脳オルガノイドはあらゆる細胞に変化できる全能性を持ったiPS細胞を脳細胞になるように刺激し、3次元的に培養した人工培養脳となっています。
脳オルガノイドは本物の脳ほど大きくなく構造も単純ですが、ヒトやチンパンジーに存在する脳のさまざまな部分を備え、ニューロン同士が接続した神経回路網を形成し、活発な脳活動も観察されています。
実験にあたってはまず、チンパンジーのiPS細胞から脳オルガノイドが培養すると共に「知恵の実」遺伝子ARHGAP11Bが細胞内部に組み込まれました。
するとチンパンジー脳オルガノイドの大脳新皮質の幹細胞が2倍に増殖し、続いて新皮質のニューロン数が劇的に増加しました。
この結果は「知恵の実」遺伝子ARHGAP11Bが知性や精神を司る新皮質のニューロンを増加させ、チンパンジー細胞から作られた脳オルガノイドのヒト化を誘導している可能性を示します。
そこで研究者たちは逆方向の実験に移行します。
「知恵の実」を与えることができるならば、奪うこともできるハズだからです。