政治が科学を超えたソ連
このような話を聞くと、「科学が未熟な時代のできごと」だと感じる人も多いでしょう。
しかしルイセンコが自説を発表した1930年代にはすでにメンデル以来の遺伝学が世界的に主流になっており、多くの生物学者がその理論に従って研究を行っていました。
当然ソ連も例外ではなく、多くのソ連の生物学者はルイセンコの説に対して反対したのです。
しかしルイセンコが行った農法はわずかながらも農場の食糧生産量を増やすことに成功したため、たちまちルイセンコはソ連国内において農業の英雄になりました。
またルイセンコの「後天的に獲得した性質が遺伝される」という説は共産党の「努力は絶対に報われる」という考えと非常に相性が良かったことや、ルイセンコ自身がレーニン主義の熱狂的な支持者で生家が小作人の家庭であったこともあり、ルイセンコは多くの生物学者の反対をよそにどんどん出世していきました。
さらにルイセンコは非常に速いペースで様々な農業政策を発表したため、他の研究者たちがそれが本当に正しいのかを検証する時間がなかったことも、ルイセンコの出世を助けました。
もちろんルイセンコが提唱した農業政策は共産党によるプロパガンダもあって一般庶民に広く受けれられており、これらを批判する研究者に対する風当たりは日に日に冷たくなっていったのです。
加えてルイセンコも自身の説に反対する研究者を非難するために、手にした地位を最大限に利用しました。
ルイセンコはオデッサ(現在のウクライナのオデーサ)にある淘汰学遺伝学研究所にて研究を進めていましたが、1936年にはそこの所長に就任し、遂には1938年に農業科学アカデミー総裁にまで登り詰めたのです。
その翌年の1939年、ルイセンコは1930年代の間続いていた論争に決着をつけるため、ニコライ・ヴァヴィロフら率いる主流派遺伝学者と直接対決しました。
遺伝学における対立を決する場となったのが、『マルクス主義の旗の下に(Под знаменем марксизма)』誌主催の遺伝と淘汰をめぐる討論会でした。
そこでヴァヴィロフは当時最先端だったショウジョウバエを使った遺伝子の研究を作物の品種改良に応用する方法を提案し、主流派の意地を見せたのです。
それに対してルイセンコはヴィヴィロフらを「役に立たないハエの研究に従事している遺伝学者」と批判し、実践的な栽培植物の研究に従事している自分たちにこそ理があると主張しました。
さらにルイセンコは「遺伝子という存在はプロレタリアート(労働者階級)的ではない」や「唯物弁証法(マルクス主義の重要な考え)に従えば自分たちの理論に行きつくのは明白」などと主張し、ヴァヴィロフら主流派遺伝学者たちを共産主義的ではないと批判したのです。
結局この討論会はルイセンコの勝利に終わり、その後ヴァヴィロフはスパイ容疑で逮捕され、他の主流派遺伝学者たちも処刑されたり職を追われたりすることとなったのです。