英米の学者にバレるも、何とか取り繕う
最大の宿敵であるヴァヴィロフら主流派遺伝学者を排除することに成功したルイセンコですが、トラブルも多く続きます。
なぜなら論争の2年後の1941年、ドイツ軍がソ連への侵攻を開始し、ソ連国内は学問論争どころではなくなったのです。
ルイセンコはそのような中でも疎開先のシベリアにてコムギ栽培の研究に従事し、自身の考えを補強する材料を作ろうとしていました。
さらにソ連政府は対独戦にて苦境に立たされ、英米との国交を回復させました。
その際に学問交流も奨励され、それまでほとんど交流のなかったソ連の情報が英米に流れていったのです。
当然ルイセンコ学説に関する情報もその例外ではなく、英米の生物学者たちは先述した『マルクス主義の旗の下に』などの情報を手に入れて検証を始めました。
そして1946年に2冊の英語文献が出版されたことで、ルイセンコ学説は世界に広まったのです。
一つはケンブリッジ大学の育種学者P.S.ハドソンらが出版した小冊子「New Genetics in the Soviet Union」です。
この書籍は、西側学界にとって未見の200以上のルイセンコ派の論文を引用し、その詳細な実験データが紹介されました。
著者たちは、ルイセンコ派の実験における不備や誤りを指摘し、農学実験上の決定的な不備として評価したのです。
もう一つの重要な出版物は、アメリカの遺伝学者ドブジャンスキーによって英訳されたルイセンコの著書「Heredity and Its Variability」です。
この書籍では、主にルイセンコの遺伝学説の理論的側面が取り上げられました。
しかし、この本は従来の遺伝学の先行研究を引用しておらず、実験の過程も不明瞭であり、循環論法(理論Aの根拠となる理論Bの根拠が理論Aになっているという論法)になっていて遺伝学から逸脱した用語が大量にあり、お世辞にも学術書としての体裁をなしていませんでした。
そのことから学者たちはルイセンコが正規の教育を受けた科学者でないと判断し、検証を行うことすらためらわれるほどルイセンコの説に対する信頼はガタ落ちしました。
しかし共産党が行っていたプロパガンダが功を奏してか、ソ連国内にてルイセンコの権威が揺らぐことはなく、1948年には農業科学アカデミーはルイセンコの説を「唯一の正しい理論」として教えるという声明を出すに至りました。
さらに同時期に遺伝学は「ブルジョワ疑似科学」と宣言され、ソ連国内で遺伝学の研究は行われなくなったのです。
このルイセンコの説は紆余曲折がありながらも、1964年にソビエト科学アカデミーにおいて撤回されるまで幅広く唱えられていました。
しかし日進月歩で発展している遺伝学の分野において16年ものブランクはあまりに大きく、ソ連の遺伝学の分野の研究は世界から立ち遅れることとなったのです。
またルイセンコの政策によってソ連の農地は荒れ果ててしまいましたが、政府はこれを「農民がブルジョワ的」だったからであったと判断し、多くの農民が粛清されることになりました。
昨今の世界では科学的に間違ったことを堂々と主張してもすぐに訂正されますが、ルイセンコの一件は科学を政治が歪めることの危険性を示しています。
ロシアむかしからひどい。