戦後の混乱期に復活するも、廃止の危機に見舞われた給食
やがて1945年のポツダム宣言受諾により、戦争は終結したものの、日本は引き続き深刻な食糧難に見舞われていました。
餓死者や子どもの犯罪が増加し、国民生活は荒廃し、児童の成長状況も悪化していたのです。
1946年には米国のアジア救済公認団体ララから援助物資が提供され、学校給食の再開の目途が立ちました。
文部省(現在の文部科学省の前身)、厚生省(現在の厚生労働省の前身)、農林省(現在の農林水産省の前身)は「学校給食実施の普及奨励について」という通達を出し、貧困や虚弱などの理由にかかわらず、国民学校の全児童を対象に給食を提供することを定めたのです。
1946年、東京、神奈川、千葉の三都県の小学生25万人を対象に給食が開始され、続いて都市部の小学校児童約300万人に対して援助物資を用いた給食が週に2回行われました。
やがて1948年には週5回に増加し、1949年からはユニセフからの脱脂粉乳の寄贈が受けられたのです。
1950年には米国からの小麦粉を使用した給食が始まり、同年末まで続けられました。
しかしながら、1951年には学校給食が存続の危機に瀕する状況となりました。
サンフランシスコ講和条約の締結によって、アメリカの占領地域救済政府資金による援助が終了したためです。
大蔵省と文部省・農林省の間で給食費用の負担に関する議論が巻き起こり、結果として負担が増加し、給食が中止される地域も生じました。
1951年には約3200校で給食が休止し、約200万人の児童が給食を受けられなくなったのです。
しかし1951年のルース台風や1953年の西日本風水害などといった大規模災害が発生し、日本国内に甚大な被害をもたらすと、潮流が変わります。
学校給食を作る場所が炊き出し拠点としての役割を果たすことが重要視され、学校給食の法制化と安定化の機運が高まったのです。