1.4ペタバイトの画像データを積み重ねる
人間の神経回路についての研究は非常に重要ですが、その進展を妨げる大きな障壁の一つが、高品質な人間の脳サンプルの不足です。
通常、多くの臓器は細胞が生きている状態で採取することで貴重な情報を得ることができますが、脳の場合はなかなかそうもいきません。
正常な脳細胞を生きた人間から摘出することは、人格の破壊や身体機能の喪失につながります。
近年では、人間の細胞から作られる脳オルガノイド(小さな脳の模型)を用いた研究も進められていますが、これらはまだ実際の脳組織の構造(例えば、皮質層の存在)とは異なるため、完全な代替とはなっていません。
そこで今回、ハーバード大学の研究者たちは、脳神経外科の手術の際に摘出される脳組織に着目しました。
てんかん患者に対する脳神経外科手術では手順の一部として生きている脳組織を摘出することがあるからです。
この研究では、そのような脳外科手術の副産物として得られる脳組織(側頭葉)を使って、人間の神経回路を可視化する試みが行われました。
得られた脳切片はわずか1ミリ立方ですが、この小さな世界には5万7000個の細胞、1億5000万のシナプス、そして230ミリメートルの血管が含まれています。
研究者たちはこの小さな脳切片を樹脂に漬け込んで劣化しないようにし、次いで平均厚33.9ナノメートルの5000枚にスライスしました。
人間の平均的な細胞の大きさが20マイクロメートル(2万ナノメートル)であることを考えると、1枚1枚のスライスがどれだけ薄いかがわかります。
研究者たちは高精度の電子顕微鏡を用いてスライスを観測し、1枚1枚を画像化していきました。
そうして得られた画像情報は膨大であり、最終的に1.4ペタバイトにも及びました。
次に研究者たちは人工知能の助けを借りて、得られた画像データを縦方向に積み重ね、立体的に見えるように再構成しました。
こうすることで1つ1つの細胞やシナプスがどのように配置されているかを視覚化できるようになります。
するとこれまで知られていなかった新事実が明らかになりました。
3次元的に再構成された脳を調べてみると、グリア細胞などの非神経細胞などニューロン以外の細胞が非常に多く、個数もニューロンの2倍ほど存在することが明らかになりました。
また最も数が多かったのは、ニューロンの腕を保護する役割が与えられた細胞(オリゴデンドロサイト)であることも明らかになりました。
しかしより興味深かったのは強力な接続の存在でした。
通常1つのニューロンは無数の腕を伸ばし数千個のシナプスを介した弱い結合を持っています。
具体的には、腕(軸索)の96%以上は1つのシナプスのみを持ち、99%以上が3つ以下のシナプスを持つとされています。
しかし今回の研究では、1つのニューロンに対して50個ものシナプスを形成する特殊な腕(軸索)が存在することが明らかになりました。
簡単に言えば、1本の腕(軸索)が50本に枝分かれして、それぞれが同じニューロンと結合している状態に近いと言えるでしょう。
これは特定の腕(軸索)からの入力が、神経回路の中で特別な役割を果たしている可能性を示しています。
研究に使われた脳切片はもともと学習を担う側頭葉であることから、研究者たちも「脳における学習がどのようなものであるか」を示している可能性があると述べています。
(※もしかしたら50個のシナプスを持つ腕(軸索)は、人生において重要な記憶を形成していたのかもしれません。)
ですが最も研究者たちを驚かせたのは、ニューロンの腕部分(軸索)に出現した渦巻状の巨大な塊でした。
これまでニューロンの腕(軸索)は隣のニューロンとの接続のために真っ直ぐ伸びていくものだと考えられていましたが、一部の腕は毛糸の球のような巨大な塊を構成していたのです。
研究者たちもこの発見は予期しておらず「これまでこのような光景をみたことがない」と述べています。
今回の研究は人間の脳をこれまでにない精度で3次元化したものであり、既存の研究では見落としていた構造が次々と明らかになりました。
研究者たちは次のステップとして、マウスの脳の完全な3次元化を目指しています。
もし特定の動物の脳回路ネットワークを完全に把握できるようになれば、自閉症などの精神障害がどんな接続パターンに由来しているかを明らかにすることが可能になります。
また得られた全脳マッピングデータをコンピューターに取り込みニューラルネットとして再現できれば、仮想空間内部で生きているマウスと同じように動く存在をシミュレートすることができるでしょう。