カラトラバ騎士団は何の戦いで戦死したのか?
当時のカスティーリャ王国で起こっていた大きな争いといえば、歴史上でも有名な「レコンキスタ(国土回復運動)」です。
今日スペイン・ポルトガルがあるイベリア半島は、西暦711年にイスラム勢力のウマイヤ朝が侵入し、そこからイスラム教徒が半島全域を支配下に収めていきました。
そこでキリスト教国家がイスラム教徒に奪われたイベリア半島を奪還しようとして718年に開始した聖戦がレコンキスタです。
カラトラバ騎士団も12世紀からレコンキスタの戦闘に参加し、イスラム勢力と戦って勇名を馳せました。
その中で、カラトラバ騎士団がゾリータ・デ・ロス・カネス城を拠点として確立する上で決定的となった戦いが2つあります。
それが1195年の「アラルコスの戦い」と1212年の「ナバス・デ・トロサの戦い」です。
アラルコスの戦いでは、カスティーリャ王アルフォンソ8世の率いるキリスト教国家がイスラム軍に大敗を喫し、戦闘に参加したカラトラバ騎士団もやむなく敗走しました。
そこで彼らが主な避難所としたのがゾリータ・デ・ロス・カネス城です。
さらに両軍の戦闘は続き、1212年にナバス・デ・トロサの戦いが勃発しました。
これはキリスト軍が約5万、イスラム軍が約12万5千と兵力に大きな差があったにも関わらず、キリスト軍が勝利した歴史的な戦いでした。
その勝因は両軍の士気の差にあったと伝えられています。
アルフォンソ8世はアラルコスの雪辱を果たすことに執念を燃やしており、兵士たちも土地奪還と戦利品獲得の野心が合わさり一丸となっていました。
一方のイスラム軍は兵士の数は多いものの、その中身は雑多な民族を寄せ集めた混成部隊であり、おまけに内部でもモロッコ人やアンダルス人を差別していたため、まとまりがなかったのです。
この戦闘に勝利した後に、ゾリータ・デ・ロス・カネス城はカラトラバ騎士団の拠点として確立されました。
この2つの戦いは、ゾリータ・デ・ロス・カネス城が深く関わった戦闘であることから、23体の戦士たちはいずれかの戦闘で命を落とした可能性が高いと研究者らは見ています。
研究主任のカルメ・リセック(Carme Rissech)氏は「遺骨のほとんどには貫通した刺し傷や鈍器で殴打された外傷がかなりの数見られた」と話しました。
おそらく、戦士したカラトラバ騎士団を城まで運び帰った後に埋葬したのでしょう。
しかし遺骨の調査を進める上で、驚くべき事実が発覚しました。
なんと戦士のうちの一人は男性でなく、女性だったのです。