木彫の仏像は一木造から寄木造へ発展した
木彫の仏像は一本の木材から掘り出す一木造から始まりました。そのため、仏像のサイズや表現には木材のサイズによる制約がありました。

そこで、寄木造という技法が採用されるようになります。寄木造りとは仏像をパーツに分けて制作し、つなぎ合わせるという技法で、一本の木材を彫刻するよりずっと自由に表現できるようになりました。
一木造では仏像の背中側から内部をくり抜くことで乾燥による木材の割れを防いでいましたが、寄木造ではより深くくり抜くことができました。
一木造でよく使われていたカヤ材から、寄木造では乾燥の過程で割れが生じやすくなるヒノキ材に変わっていったことから、より深くくり抜く必要が生じたという説もあります。
寄木造の初期では、仏像を体の側面で二つに分ける「前後剥ぎ」や、正中線で左右に分けて接合する「正中剥ぎ」という方法が主に用いられていました。
特に正中剥ぎは顔の真ん中に継ぎ目がくることもあり、この制作方法をメインの仏様に使うのはちょっとね……というムードがあったのもそう長い間ではありませんでした。
いったんメインの仏様の制作にも使われると、あとはなし崩し的に使われるようになっていったようです。そうして寄木造は全身の木材が均等の厚さになるようくり抜く形で完成していきました。
時代が進むと、ダイナミックな手足の動きや翻る天衣(てんね)、衣の裾などをパーツに分けて彫刻し、つなぎ合わせることで巨大かつ華麗な像も作られるようになりました。
礼拝の対象が塔から金堂に移り、広くなっていく金堂に安置する仏像も巨大化していきましたが、金属や漆でない木彫の仏像でも、金堂の広さに対応させることができるようになったのです。
また、仏教のガーディアンたる仁王像も、より大きく強そうに作れるようになりました。

サイズアップしていく木彫の仏像は「必要なパーツに分ける」「内部を空洞に作る」「体部分の木材の厚さを均等にくり抜く」ことで技法が完成されていきました。
そして、内部を空洞にすることで、木彫の仏像が取れるようになった表現が「玉眼」です。
玉眼とは水晶やガラスで作った目のことです。
仏像の頭部を空洞にすることで、くり抜いた眼球部分に水晶やガラスをはめ込むことができるようになり、まるで生きている像がこちらを見ているような表現を取れるようになりました。

ここで當麻寺の仁王像に話を戻します。
當麻寺の仁王像は内部が空洞の寄木造。頭部も空洞で玉眼がはめ込まれています。そして仁王像は阿形と吽形の二体。阿形は口を開いた姿です。さらに、二体の仁王像は仁王像であるがゆえに金堂ではなく、仁王門に安置されました。
屋根はあっても屋外です。これが二ホンミツバチにとってはミラクルな条件でした。