古代イスラエルの人々から忌み嫌われていた神殿娼婦
古代の物語を紐解くと、私たちは神殿娼婦という異質な存在に出会います。
ヘブライ語で「ケデーシャー」と呼ばれる彼女たちは、古代オリエントの豊穣儀礼に根差した存在であり、バビロンの神殿などで重要な役割を担っていました。
神と「聖婚」を行う高位の女性、神殿参拝者に奉仕する者たち――その階層も多岐にわたります。
特に、バビロンではマルドゥク神(またはバアル神)に仕えるための特別な部屋があり、神と聖婚した最上層の女性たちは夜ごと横たわったと言われているのです。
一方そこまで階層の高くない女性は、神殿に対して寄付を行ったものに対して「神様の力を授ける」という名目で性的サービスを提供していました。
この話には、遥か昔の神秘的な空気が漂います。
ところが、イスラエルの人々はこのような風習を断固として拒絶しました。
その背景には単なる道徳観だけではなく、民族的アイデンティティを守るという切実な思いがありました。
神殿娼婦の存在は、ヤハウェという唯一神を崇める彼らにとって、異教的な慣習への誘惑を象徴するものでした。
旧約聖書には、神殿娼婦への厳しい態度が何度も描かれています。
『創世記』38章では、ユダがタマルを娼婦と誤解しながらも、「神殿娼婦」という言葉を利用して自身の行為を誤魔化そうとする場面があります。
彼は娼婦との関係を恥ずべきものと考えましたが、神殿娼婦ならば受け入れられるとでも思ったのでしょうか。
そのような観念が当時どこかにあったとしても、旧約聖書全体では神殿娼婦に対する明確な拒絶が繰り返されます。
なお神殿娼婦の陰には、神殿男娼という存在も見え隠れします。
神殿男娼して仕えているのは若くて美しい男性であり、彼らも神殿娼婦と同様に性的サービスを提供していました。
なお神殿男娼が性的サービスを提供する相手は基本的には女性ですが、中には男性に性的サービスを提供する場合もありました。
聖書の中には、神殿男娼がイスラエルの地にいたこと、彼らが異教の慣習に従っていたことが記されているのです。
この「忌むべきもの」とされた存在も、古代オリエントでは広く認められていたようですが、イスラエルの聖所では徹底的に排除されました。
そのため聖書の『申命記』23章では、イスラエルの女子が神殿娼婦となることや、男子が神殿男娼(カーデーシュ)となることを厳しく禁じています。
そればかりか、「遊女の稼ぎ」や「犬の稼ぎ」を神殿に持ち込むことは許さないと強く拒絶していました。
ここに出てくる「犬」という表現は神殿男娼を指したもので、彼らへの強い嫌悪感を反映しています。
また神殿娼婦と神殿男娼の稼ぎが並んで言及されているあたり、当時の人々にとって神殿男娼が神殿娼婦並みにありふれたものであったことが窺えます。
こうした禁止は単に個人の道徳性を問うものではなく、イスラエルの宗教的純潔を守るための手段でした。
さらに、『ホセア書』4章14節では、神殿娼婦やそれに類する儀礼の蔓延が北イスラエルの堕落を象徴するものとして描かれます。
ヤハウェ信仰(いわゆるユダヤ教)とバアル信仰が入り混じった儀礼の中で、祭司や民が淫行を行い、国家の霊的な腐敗を深めたというのです。
預言者は、こうした堕落が最終的に北イスラエルの滅亡を招いたとしています。彼の言葉を借りるなら、「悟りのない民は滅びる」のです。
古代イスラエルにおける神殿娼婦や男娼への視線は、単なる宗教的道徳を超えて、民族の生存をかけた文化的防衛としての側面を強く持っています。
異教の儀礼がイスラエルの民を蝕むことを防ぐために、彼らはヤハウェ信仰を中心とした規律を厳しく守り続けようとしたのです。
その背景には、単なる宗教的な清廉さを超えた、民族的なアイデンティティを守るための熱意があったと言えるでしょう。