批判されつつも、時には称賛されることもあった聖書内の遊女
このように古代イスラエルの人々は神聖娼婦に対しては厳しい視線を向けていましたが、それ以外にも売春を行っていた存在がありました。
それが遊女であり、彼女たちは街の娼館などで性的サービスを提供していました。
彼女たちもしばしば聖書の物語に登場しますが、描かれ方は複雑です。
遊女への警告は特に『箴言(しんげん)』や『シラ書』などの教訓的な書物に頻出します。
「遊女は深い墓穴」「遊女を友とする者は財産を失う」など、彼女たちは財産や名誉を食い尽くす存在として恐れられていました。
さらに、宗教的な規範の中では、彼女たちとの関わりが厳しく制限されていたのです。
『レビ記』では、祭司が遊女と結婚することや、祭司の娘が遊女となることを禁じ、違反者には焼き殺すという過酷な刑罰が科せられています。
神に仕える者にふさわしい「聖なる」生活を守るため、遊女の存在は徹底的に排除されていたのです。
一方で、遊女は比喩的にも用いられました。イスラエルの堕落や異教の国々への依存を非難する際、預言者たちは遊女というイメージを用いています。
『イザヤ書』では、かつて正義に満ちていた町が遊女に成り果てた様子を描き、『エレミヤ書』では、どこにでも身を横たえる遊女としてイスラエルを戒めています。
このように、遊女は道徳的・宗教的堕落の象徴として頻繁に用いられる存在でした。
それでも異教の神に仕えていた神殿娼婦や神殿男娼ほどは忌み嫌われておらず、先述したユダのように遊女と関係を持つことよりも神殿娼婦と関係を持つことの方がマシであるという考えを持つものは少なかったです。
しかし、遊女が常に批判の対象であったわけではありません。
『ヨシュア記』に登場する遊女ラハブは、その最たる例です。
彼女はユダヤ人の指導者が派遣した斥候を匿い、彼らを無事に逃がすことでイスラエルの勝利に貢献しました。
結果として、エリコの町が滅びる中でラハブとその家族は助けられ、長くイスラエルに住むことを許されたのです。
ラハブは遊女でありながら高く評価された特異な存在となっています。
このように、遊女は古代イスラエル社会において複雑な立場に置かれていました。
宗教的には厳しく非難される一方で、特定の状況下では重要な役割を果たし、時に称賛を得ることもありました。
彼女たちの存在は、堕落の象徴でありながら、希望や救済の予想外の一端を担う存在でもあったのです。
この二面性こそ、聖書が遊女を描く際の興味深い点といえるでしょう。