酸素なしで、どうやって動いているのか

ここから、研究チームは次の謎に挑みます。
酸素を使っていないなら、何を使ってエネルギーを作っているのか?
私たちの細胞は、エネルギー通貨であるATP(アデノシン三リン酸)で動いています。
お金にたとえるなら、ATPは「細胞の生活費を支払う紙幣」のようなものです。
このATPを作るのに、私たちの細胞はブドウ糖を使います。
普通の細胞は、ブドウ糖1個から、酸素を使って約30個のATPを生み出します。
これが 酸素を使う好気呼吸の効率です。
ところが酸素がない状況だと、ブドウ糖1個から取り出せるATPは、たった2個までになります。
これが嫌気性解糖(酸素なしで糖を分解する方法)と呼ばれる、より原始的なエネルギー生産方式です。
その差、実に15倍。
同じ量の原料からエネルギー取り出しという仕事をしているのに、お給料の手取りが急に15分の1になるようなものです。
ちなみにこの効率の差が、地球上で酸素呼吸を行う好気性生物を繁栄させ、酸素なしの代謝だけで暮らす生物を進化の主流から押しのけた一因と考えられています。
次に研究チームは、このような酸素がない状態で網膜を運用するのに、「組織のどの場所で、どの遺伝子が、どれくらい活発か」を一気に見える化できる、いま最先端の手法(空間トランスクリプトミクス)を使い網膜を丸ごと調べました。
この手法では1つや2つではなく、5,000から10,000もの遺伝子を一度に調べて、それぞれの正確な場所をマッピングする。
まるで分子レベルのGPSのようなことができます。
そして見えてきた答えは、はっきりしていました。
酸素のない網膜の内側では、嫌気性解糖に関係する遺伝子が、ほかのエネルギー生産経路を押しのけて激しく働いていたのです。
鳥の網膜は、まさしく「酸素なしの原始的なエネルギー生産」で動いていたわけです。
しかし、ここで新しい疑問が生まれます。
15分の1の効率しかないのに、体のなかで最もエネルギーを使う組織が、どうやって需要を満たしているのでしょうか?
答えはシンプルでした。
ブドウ糖を、大量に流し込んでいたのです。
研究チームが放射性物質で印をつけたブドウ糖を鳥に注射して測定したところ、鳥の網膜は脳の他の部位の2.56倍ものブドウ糖を取り込んでいることがわかりました。
効率が悪いなら、量で補えばいい——鳥の体は、そういう設計を選んでいたわけです。
鳥の眼球のなかは、ゼリー状の透明な液体(硝子体)で満たされています。
鳥の場合、このゼリーが「ブドウ糖を溶かし込んだ栄養スープ」として機能していて、網膜はそのスープに浸かりながら、必要なぶんだけブドウ糖をじわじわと引き出して使っているのです。
眼球まるごとが、網膜のための巨大な栄養タンクになっている、というイメージです。
ただ「それでも結局、すごく無駄な仕組みじゃないか?」と思うかもしれません。
確かに、その通りです。
エネルギー1単位を作るのに何倍ものブドウ糖を使うのですから、家計簿としては大赤字に見えます。
けれど、研究者たちはこの設計を「非効率な妥協」ではなく、鳥が払うべき必然のコストだったと考えています。
その理由が、三つあります。
ひとつめは、鳥は希少な資源を豊富な資源に置き換えただけだということです。
血管のない網膜にとって、酸素は届けるのが極めて難しい希少資源です。
一方、ブドウ糖は血液に常時大量に流れています。
実は鳥の血中ブドウ糖濃度は人間よりずっと高く、キンカチョウのような小型鳥では人間の5倍ほどもあるのです。
届きにくい酸素にこだわるより、ふんだんにあるブドウ糖を惜しまず流し込み、酸素なしでエネルギーに変えたほうが、トータルでは合理的——そういう発想です。
ふたつめは、鳥は老廃物を捨てていないことです。
嫌気性解糖の老廃物として乳酸が生まれますが、これは眼櫛を通って血液に戻され、肝臓や心臓など、ふだん酸素呼吸をしている他の臓器で処理されると考えられます。
つまり網膜は「最初の2個分のATPだけ受け取り、残りの仕上げは他の臓器に丸投げ」しているのです。
個体全体で見れば、エネルギーは無駄になっていません。
そしてみっつめが、最も大事な視点です。
そもそもこの設計は、エネルギー効率を最適化するためのものではありませんでした。
鳥が本当に最大化したかったのは「視力」だったのです。
視力を上げるには、網膜の細胞をぎゅうぎゅうに詰めて、なおかつ光路をクリアに保つ必要がありました。
その結果、網膜は分厚くなり(タカの仲間では630μmに達する例もあります)、血管を通す物理的な余地が消えました。
「酸素を諦めて視力を取る」——この選択を成立させるために、嫌気性解糖はどうしても必要だったのです。
鳥は「効率を犠牲にした」のではなく、「視力を最大化するために網膜細胞の密度を高める方法を選んだ結果、血管が邪魔になり、酸素を使えなくなった」のです。
嫌気性解糖は、その帰結として選ばざるをえなかった解でした。
そう考えると、グルコースの大量消費は無駄遣いではなく、鋭い視力を手に入れるために自然が見つけた、もうひとつの巧妙な抜け道だったとわかります。






































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