脳を「狙って動かす」ことは、長いあいだの夢だった

私たちの考えや気持ち、記憶は、脳の神経細胞が電気の信号をやりとりすることで生まれていると考えられています。
ところが、どの細胞のどんな働きが、どの考えや気持ちにつながっているのかは、長いあいだ深い謎のままでした。
100年以上、研究者にできたのは、脳の電気的な活動を記録し、「ここが働くとこんな心の状態になる」と照らし合わせることでした。
しかしそれでは「一緒に起きている」ことは分かっても、「その神経が原因で起きている」とまでは言えません。
かといって電気ショックで直接刺激すると、狙った細胞だけでなく周りの何百万個もの細胞までまとめて刺激してしまいます。
薬や金属の電極も何千種類もの細胞に一度に効いてしまううえ、脳本来の素早い信号に追いつけないほど動きが遅いものでした。
いわば、町じゅうの明かりを一斉につけ消しして、どの家の電灯が何の役に立つのかを調べるようなものです。
そんな中、1962年にノーベル賞を受けた分子生物学者フランシス・クリック氏は、光こそが特定の細胞を操る鍵になるかもしれないと考えていました。
ノーベル委員会のアブデル・エル・マニラ氏は、これを「すばらしいアイデアだが、まったく現実離れしているように思えた」と振り返っています。
その現実離れした夢をかなえる鍵は、脳から遠く離れた、ある小さな生き物の中に隠れていました。
藻の「光センサー」は、どうやって脳のスイッチになったのか

物語の主役は、クラミドモナスという単細胞の緑藻です。
この藻は、体の表面にある「眼点」という小さな部分を光のセンサーにして、光の方へ泳いでいくことで知られています。
ドイツのマックス・プランク生化学研究所にいたペーター・ヘーゲマン氏(現・ベルリンのフンボルト大学)は、こんなに単純な生き物がどうやって光を動きに変えているのかに興味を抱きました。
電気的な測定で調べたところ、眼点には、光をほとんど一瞬で電気の信号に変えるタンパク質があることが分かりました。
ヘーゲマン氏は2000年代の初めに、生物物理学者のゲオルク・ナーゲル氏(現・ドイツのヴュルツブルク大学)と手を組み、このタンパク質をカエルの卵の細胞につくらせて性質を調べました。
すると、このタンパク質そのものが、光が当たると開く「イオンの通り道(イオンチャネル)」だと判明したのです。
青い光を受けると通り道はミリ秒(1000分の1秒)単位の速さで開き、ナトリウムやカルシウムといったプラスの電気を帯びたイオンが細胞に流れ込んで、電気の信号が生まれます。
動物の目の光センサーは、光を受けてから細胞の中で何段階もの手順を踏んで通り道を開きますが、このタンパク質はたった1つで「光を感じる役」と「通り道の役」を兼ねていました。
2人はこれを「チャネルロドプシン」と名付け、藻とは関係のない細胞に組み込んでも、その細胞がすぐに光に反応するようになることを示しました。
エル・マニラ氏は「2人は、神経科学者が長年夢見てきたスイッチを見つけたのだと、正確に理解していた」と語っています。
この発見に目を付けたのが、米スタンフォード大学の神経科学者カール・ダイセロス氏です。
脳の神経細胞もまた、ナトリウムイオンが流れ込むことで生まれる、ミリ秒単位の素早い電気の信号でやりとりしています。
ダイセロス氏は、このタンパク質を哺乳類の神経細胞に安全に届けられれば、光を当てるだけで好きな瞬間に神経を発火させられると考えました。
そして2005年、ウイルスを運び屋にして、ナーゲル氏から提供されたチャネルロドプシンの遺伝子を、培養したラットの神経細胞に組み込みました。
皿に青い光を短く点滅させると、神経細胞は光に合わせて、ミリ秒単位の正確さでいっせいに電気の信号を出したのです。
次の本当の試練は、生きた動物の脳でも同じことができるかどうかでした。
ダイセロス氏らは、特定の種類の神経細胞だけで働く遺伝子のしくみを使ってチャネルロドプシンを組み込み、髪の毛ほどの細さの光ファイバーで脳の狙った場所に光を届けました。
その結果、生きたマウスの脳で、選んだ神経細胞のグループだけを光で働かせ、はっきりした行動を引き起こすことに成功しました。
2007年までに、ダイセロス氏は、目覚めて自由に動き回る動物の脳に光を当てることで、特定の行動を呼び起こしたり、感情の状態を切り替えたり、学習した記憶を書き換えたりできることを示しています。
エル・マニラ氏は「特定の脳回路と行動のあいだの因果関係が、初めて確かめられた」と述べています。
つまり、藻が光に向かって泳ぐための小さなしくみが、脳の中の「原因」を確かめるためのスイッチに生まれ変わったのです。
光のスイッチが照らした脳の病気と、これからの医療

この技術は「光遺伝学(オプトジェネティクス)」と呼ばれるようになり、またたく間に世界中へ広まりました。
この約20年で、何千もの研究室がこの方法を使い、哺乳類の脳の「配線図」をひもといてきました。
たとえば、痛みや喉の渇き、食べること、仲間との関わり、攻撃性、ごほうび、注意などに関わる神経回路が突き止められています。
健康な脳だけでなく、パーキンソン病やてんかんといった神経の病気についても理解が進みました。
エル・マニラ氏によると、光遺伝学は特定の脳回路がどう乱れるのかを明らかにする助けにもなり、失明やうつ、依存症、認知症といった病気にも関わる知見をもたらしたといいます。
ノーベル委員会の委員長も「かつては夢でしかなかったやり方で、脳の地図を描く機会をもたらす」と評価しています。
とはいえ光遺伝学は、今のところ主に基礎研究や病気を理解するための道具です。
それでも、治療への応用も早い段階ながら芽を出し始めています。
その一つが、目の中の光を感じる細胞が死んでいき、だんだん視力を失っていく遺伝性の病気「網膜色素変性症」です。
この病気では光を感じる細胞が失われても、網膜にはまだ健康な細胞が残っています。
そこで、チャネルロドプシンに似たタンパク質を網膜に組み込み、残った細胞を光で働かせて視神経から脳へ信号を送るという方法が試されています。
画期的な研究では、目の見えない患者で視覚の機能が一部回復したことが示されており、同じ方法を使った臨床試験もいくつか進んでいます。
ほかにも、小さな動物で脊髄やぼうこうの働きを制御したり、神経の痛みを抑えたり、生きた胚の体づくりを導いたりする使い道が調べられています。
ダイセロス氏は、この「因果関係」という土台の上で、光の正確さを生かして新しい治療法や薬を探す取り組みが進んでいると語っています。
ちなみに受賞の電話は深夜、ダイセロス氏がちょうど眠りに落ちかけたころにかかってきたそうです。
本人は「うまく言葉が出てこなかった」「とても驚いて、頭が混乱していた」と振り返り、「でも、もちろんとてもうれしく、わくわくした」と話しています。お祝いには研究に戻るつもりだそうです。
ノーベル会議の事務局長によると、3人はそろって驚き、互いを「友人」と呼んで、一緒に受賞できることを喜んでいたといいます。
私たちはふだん、光を「ものを見るためのもの」だと思っています。
けれど、小さな藻がなぜ光の方へ泳げるのかという素朴な疑問が、脳の中で何が何の原因になっているのかを確かめる強力な道具につながりました。
役に立つかどうかも分からない小さな問いこそが、科学の大きな扉を開くことがあるのかもしれません。
ただ、月曜の朝に「やる気」のスイッチを光でパチンと入れてもらえる日は、まだ少し先になりそうです。




















